貪欲さが必要なのです。今の我が国の欲望は、一見貪欲に見えるけれども、その実言うなれば予め諦められている上でのものです。諦めてはいけない。諦めは絶対に良くありません。これは勿論、「金がないから欲しい物が買えない」といった話ではありません。心の倫理としての美学の問題なのです。まず第一に貪欲である事。その自覚と実行が無ければ、あらゆる余裕は生み出され得ません。現在の我が国には圧倒的なまでに余裕が足りない。それは、それ以前に、抑止のかからない貪欲さが足りないという事なのです。貪欲さに欠け、余裕に欠けた社会は、ほぼ間違いなく、自由を犠牲にします。自由を犠牲にしてはならない。自由には貴賤が無い。それどころか、自由には大小といったサイズすら無い。マクロからミクロまで、自由は遍在します。自由だけがアクティヴなのです。
これはあなたの人生だ。
好きなことをやれ、好きなだけ。
何か嫌いなことがあるなら、変えろ。
仕事が嫌いなら、辞めろ。
時間が足りなければ、テレビを観るな。
人生かけて愛するものを見つけたければ、立ち止まれ、
あなたが好きなことを始めようとしているときも彼らは待っていてくれる。
考えすぎるな、人生は単純だ。
あらゆる感情は美しい。
食べるときは、しっかり味わえ、人噛みごとに。
心を、両手を、感情を開け、初めての物事と人々に、
私たちはその違いによって一つになれる。
隣にいる人が情熱を注ぐものを尋ね、
そして閃いた夢を彼らと共有しろ。
旅をしろ、何度でも。道に迷うたび新しい自分が見つかるだろう。
一度きりしか来ないチャンスもある、必ず掴め。
およそ人生とは、あなたが会った人、そして彼らと作り上げたもののことだ。
だから外に出て、何かを作り始めよう。
人生は短い。
夢に生き、いつも情熱を忘れるな。
(via:anotherwenoki) 2010-09-25 (via gkojay)
ラジオは20万人弱、ライブは2000人弱、映画は200人弱、音楽理論のワタシのクラスはどれも20人弱ですから、まあ拡散から濃縮まで、
2の桁ということですね。確かにマブダチといえる友人は二人ほど(どちらもキチガイですが)、そして両親も、ワタシの記憶が確かなら2人ほどだったと思い
ます。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
今度はもっと間違いをおかそう。
もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。
もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。
ピーター・ドラッカー95歳の詩 – Apelog (via jinakanishi) (via oosawatechnica) (via fyfyfy) (via jinon) (via nashiko) (via kiri2) (via yasaibomb) (via kyohei1989) (via toraumaboxer) (via sakaue) (via dj-satosato) (via qoohm) (via pageo) (via soulboy) (via webstocker) (via mitukiii)
2010-05-27
カホン(Cajón)は、ペルー発祥の打楽器(体鳴楽器)の一種。カホーンとも発音される。
カホンは楽器自体に跨って演奏される箱型のもの(ペルー式と呼ばれる)からコンガのように股に挟んで演奏されるもの(キューバ式と呼ばれる)まで、打面が木製である打楽器全般を指す。 通常ペルー式カホンを指す場合が多い。
(中略)
Cajónはスペイン語で箱を意味し、その名の通り中が空洞の直方体の形状をしている。通常木製だが、打面にFRPを用いた製品も存在する。通常側面に1つだけ打面を持ち、打面以外のある1つの面(多くは打面の反対の面)にはサウンドホールが空けられている。打面は他の面より薄い。打面の裏には弦や鈴などを仕込むことが多く、これらを仕込ませることにより特徴的なバズ音を得ることができる。 (wikipedia-カホン)
悲しさや腹立たしさや嬉しさは、なぜそう感じたのか説明したらなくなったりすることはないし誰かとその気持ちを共有することもできるのに、面白かったことはなぜ面白いのか説明すると面白くなくなったり面白さが共有できないことがバンバンありませんか。わたしはバンバンあります。
面白いこと自体はわりとたくさんあるんだけど、面白さを誰かと共有しようと思ったら、面白く思うためにいくつかあらかじめ知ってないといけないことがあることが少なくないです。その前提知識を持っている人がいればいいけど、もしいなければ、またはどうしても特定の人と面白さを共有したいけど前提知識が足りない場合は、わたしみたいな口下手で不精者は説明していくうちにどんどん面白くなくなっていって、聞いてる相手はだいたいが「ふーん」っていう反応に終わります。聞いてくれた相手に謝りたい。ここまで読んでくれた人にも謝りたくなってきた。
それで、人間は話せばわかる的な、人類皆兄弟的な、同じ種類の動物的な、なんかそういう雰囲気がある割にわたしはわたしが感じた面白さを誰ともうまく共有できないことの方が多いので、ひとりで楽しめる技術を身に付ける方がよいのではと思いました。
いちばん満足度が高そうなのは、経験を常に共にしている体と会話することだと思ったけど、ちょっと具体的にどんな方法で会話するかが難しい。精神が体を支配してるとは全然考えてなくて、むしろ神聖ローマ帝国みたいなかんじ?で体のことは考えているんだけど、帝国内に皇帝が理解できる公用語がないっていうか…皇帝がバカっていうか…。いつか足の小指と会話したりしたい。めっちゃ文句言われるかもしれない。毎年霜焼けだし。
そういう意味では経験から同一であることを強いられるものから得る面白さはかなり期待できて、小説とか映画とか音楽とか絵画とかテレビ番組とか、面白さを共有したい人がいるならそういう同じものを経験すればいい。もちろん個々の経験も得られる面白さに違いを生むけど、それでも共有できる幅は広いような気がします。あっ、デートとかそういうことなんじゃないの。
他人との共有が無理そうな面白さは共有しようとして面白くなくなるくらいなら共有しなければいいんだけど、ひとりで面白そうにしてると怪しい場合があるのがネックなんですよね。知り合いに見られてなにが面白いのか聞かれたら説明することになって面白くなくなる危険もある。かといって、面白いことに対して面白くなさそうにしてると本当に面白くなくなることもある。
で、具体的な例は一個も出さないからあんまり本気で考えてる話じゃないし、結局なにもいい方法は思いつかないんだけど…なんで面白さばっかりこんなにデリケートなんだろうなっていうアレです。他の気持ちは無遠慮に説明できるのに。
あとみんながこんなふうに面白さに対して感じてて、人には言えない面白さに震えているなら、ミクロコスモス!ってかんじ。このひともあのひとも人には言えない面白さに震えている…!
たぶん杉田玄白以前は自分の腹の中がどうなっているのか興味を持ってしまったら自分の腹か他人の腹を切り開いて見るか、見たい気持ちを我慢するかだったし、杉田玄白以降Google以前は内臓の図や写真が載っている本をどうにかして手に入れるか、自分の腹か他人の腹を切り開いて見るか、見たい気持ちを我慢するかだったけど、Google以降はおうちでググればよい。
チェレンコフ光に興味を持ったら以下略
炭疽菌に興味を持ったら以下略
以下略
興味を持ってしまってそれを我慢しないのであれば死ぬ、という対象が少なくなって行けば、危険なく見ることができる範囲で好きになる人が増えるから、まさかいつかは人類全体で見れば人類が愛さないものはなくなるのでは。
ググってわかるような知識なんかその道の入り口5センチ以内だし、興味を我慢しないと死ぬこともたくさんあるし、でもそのくらいだからおもしろいんですよね。いい時代です。
気持ちいい気持ち悪さは、だいたいの女の人なら小鼻パックや毛穴から押し出される皮脂のことを考えてもらえば共有できると信じています。あの皮脂や角栓に対する複雑な快楽と背徳感は、共有することでお互いに寛容になって世界平和が訪れてもよさそうなくらいなのに未だ戦争がなくならないところが難しいなって思います。いつだったか森美術館で小鼻パック(使用済み)の立体作品が展示されていて恍惚としながらかなりの時間凝視していました。わたしだけではなかったはずです。
気持ちいい気持ち悪さとただの気持ち悪いものとの境界は人によって違いすぎるだろうけど、角栓は男性にとってどうなのかわからないのでもっと共有できるものないのかな…フラクタルはかなりいい線行くと思うんだけどどうでしょう。
わたしの好みだと耳上の髪だけ刈り上げるツーブロックが気持ち悪いんだけどすごく好きで、いつでも見られるように自分でもしてます。いま髪の毛が肩下10センチいかないくらいの長さだけど耳上だけ7ミリ。いつも9ミリで刈るんだけどこないだ間違えました。髪の毛を頭頂部でまとめるとスラムダンクの宮城リョータっぽいかんじになってヤバいです。恍惚。ただこのままアラサーに突っ込んでいっていいのかちょっと不安にもなるところが小物です。あっリョータはあれでいいしあれがいいんですよね、気持ち悪いとか気持ちいいとかそういう話じゃない。彼アラサーじゃないからな。
電気信号から再生される映像や画像や音楽に興味を惹かれることはその再生する機械が見ている夢にのまれているみたいだ、と思ったのは一週間も前ではないけどそのことをだらだらと考えています。
なにかをインプットしてそれをそのままかまたは形を変えて再生するのは人間だったから、あれは機械が見てる夢だというのもアリなのでは。だって電気の刺激であんなものが再生されるなんて。文系脳甚だしいのはわかってるけど。
そんな機械に見させている夢のことが好きです。いつでもどこでも都合がいい。
でも大切なものは夢にしとくとすぐに消えて無くなってしまうから、電気信号とは別の形にしたほうがたぶんいいのでは。本気になるなら和紙に墨汁で書くとか。平安時代の書物は.txt形式では残らなかったんじゃないかな。現代の文化はあとになるとあんまり残っていなくて歴史家は大変かもしれないですね。
起きてても夢を見てる人がたくさんいて同じ夢を共有してると思うと、楽しいけどこのまま眠り続けて死ぬ、みたいな、ってこれなんていう寄生虫だったっけ。
この年末年始にかけて外出する気は毛頭なくそうなればパジャマを着替えるのも洗濯物が増えるし着替えなくてよいのでは、しかし昼間から酒が飲めるのはこの時期だけでそれをパジャマで行うのは堕落もいいところだしそれより酒に申し訳ないので着替えねばならない、の両端を行き来すること10分ごと5回を経てようやくふとんから這い出る朝を3日くらい連続で過ごすしあわせに見舞われています。
起きてすることは友人から借りている銀河英雄伝説のアニメDVDを見ることとNHKオンデマンドで興味のある番組を見ることと本を読むことのうち1つか2つと、それらの間を埋めるようにごはんを食べることと家族の見るテレビを覗くこととお茶かコーヒーを入れて甘いものを食べることと排泄と歯みがきとtwitterでの時間の浪費を数回と入浴と飲酒を1回ずつ行います。前者をAグループとして後者をBグループと呼びます。
Bグループは年末年始でなくてもしているので得意です。そのことについて何も考えずに行い始めたり行なっている最中も別のことを考えていることもたくさんあるので途中で手順のどこまでが終わったのかまたは何が楽しいのか何のために始めたのかわからないこともあります。でもBグループのtwitter以外は行うこと自体が重要なのでわからなくても別にいいところが好きです。
さてAグループではいまのところ(45話くらい)銀河英雄伝説は専制政治がどーのこーの民主主義がどーのこーのを登場人物がぼやいたり叫んだりするアニメで、NHKオンデマンドではなぜかプーチン絡みの番組ばかり見ていて、読書では佐伯啓思「自由と民主主義をもうやめる」(借りた)を読んでいて、毎日国家体制のことを娯楽にしていますと字にするとアレなかんじでいまびっくりしました。もうこれ以降20代のうちには国家体制についてを見たり聞いたりするのが面白くなることがないかもしれないので無理に外出することなく過ごします。中目黒ラジオがすでに終わりました。あけましておめでとうございました。
twitterで毛ブログを書けと若干盛り上がったのですが、毛についてはtwitterで申し上げた以上のことはなにも言うことはございませんので、該当するpostを貼りつけておわりです。便利な世の中ですこと!
便利な世の中だけど、twitterのpostが並ぶブログ記事って嫌い。
ブログを書かないのは書くことがないからで、というか誰かと共有したい気持ちや体験はある程度満たされていたり、または誰かと共有することを諦めているような、誰とも共有したくないような、共有できる形をつくる気力が足りないような、そういうかんじで、おおよそ「怠慢」の一言で済みます。
ブログの書き方がわからないので、どうでもいいことを少し書くのを許してください。
いままでずっと、アトピー性皮膚炎の軟膏はフルコートをつかっていました。田辺三菱製薬の薬で、特設サイトまであります(今知った)。フルオシノロンアセトニドとフラジオマイシン硫酸塩が主な成分で、副腎皮質ホルモンの薬ですので東洋系森ガールのわたしとしては、まあアレなわけです。で、生まれて1年経たない頃からお付き合いさせていただいているこの持病ですがかなり良くなっているので、このあいだからPERFECT POTIONのoutdoor balmを使い始めました。これは本来虫よけなんですけど(今知った)、肌の調子はよくて満足しています。していますが、すごく自分から植物の匂いがしていて、いまも植物臭い女がこの文章を書いていますが、満足しています。
肌も弱くて生命力も弱いので、生き延びるためにこの他にも様々な東洋系森ガールの道を邁進する人生ですが、生きるすべを得ると同時に年々はしたなくなってきている気もします。
理解ある男性が好きです。
Processing is an open source programming language and environment for people who want to create images, animations, and interactions. Initially developed to serve as a software sketchbook and to teach fundamentals of computer programming within a visual context, Processing also has evolved into a tool for generating finished professional work. Today, tens of thousands of students, artists, designers, researchers, and hobbyists who use Processing for learning, prototyping, and production.日本の公式だと
» Free to download and open source
» Interactive programs using 2D, 3D or PDF output
» OpenGL integration for accelerated 3D
» For GNU/Linux, Mac OS X, and Windows
» Projects run online or as double-clickable applications
» Over 100 libraries extend the software into sound, video, computer vision, and more...
::http://processing.org/
ProcesssingとはMITのBenFryとCaseyReasによってつくられた電子メディアを素材とし、視覚デザインを行うためのプログラミング言語と開発環境です。このソフトウェアは視覚的な表現を視野に入れつつ基礎的なプログラミングを教育するためにつくられ、またソフトウェアのスケッチブックとして提供されています。Wikipediaだと
::http://processing.jp/
Processing(プロセッシング)は、Casey Reas と Benjamin Fry によるオープンソースプロジェクトであり、かつてはMITメディアラボで開発されていた。電子アートとビジュアルデザインのためのプログラミング言語であり、統合開発環境 (IDE) である。 視覚的なフィードバックが即座に得られるため、初心者がプログラミングを学習するのに適しており、電子スケッチブックの基盤としても利用できる。Javaを単純化し、グラフィック機能に特化した言語といえる。みたいに説明してあります。
::http://ja.wikipedia.org/wiki/Processing
| Qurageさんとごにょごにょしたやつ |
| 上のやつRunするとこんなんとか描ける |
わたしは大学は文学部人文社会学科独文学専攻卒で日本に住む全員を平均した一人を仮想的に作ってみるとその人から「やや変な人寄り」の評価をいただける程度であろう人間ですが、もう日常的に外国語に触れる機会のない現在でも、英語とドイツ語を比べると語彙数は英語のほうがやや多いものの辞書が手元にある環境ではドイツ語の方が意味の把握がスムーズでクリアです。
というのは読みの話で、聴いて内容が全部わかるとかめったにない。
でも内容がわからなくても、というよりわからないから楽しい遊びがあって、それが、「Wladimir Kaminerを聴いて疎外感を楽しむ遊び」です。
CDはこれを使います。
AUDIOBOOKS MAGAZINEのUnveröffentlicht. Wladimir Kaminer Liveのページに行くと、Hörprobe (MP3)っていうリンクがあるのでそこで視聴できます。
http://www.audiobooks.at/Unveroeffentlicht_Wladimir_Kaminer_Live.id.6864.htm
ドイツには自分の書いた小説を自分で朗読する文化があるらしくて、これは Wladimir Kaminerが自分で書いた小説を自分で読むイベントのライブCDで、面白いことを喋っているわけですが、自分にはさっぱりわからない。ほんとのことを言うとぼんやりと意味はわかるんだけど笑いに直結するほど理解はできない。でも聴衆は爆笑していて、すんごい置いてけぼり感を感じる。
っていうのが面白い。
別にWladimir Kaminerでなくてもいいしドイツ語でなくてもいいので、中途半端に理解できることもある言語の音声(これ重要。そうでなければ聴くことを最初から諦めてしまう)で、特に面白くて聴衆の笑い声が入っているもの(これも重要)を選んでぜひやってみてください。そこそこ面白いから。おすすめの楽しみ方はiTunesとかiPodとかランダム再生のできるもので、他の曲の合間に突然入るようにしておくことです。いきなりアウェーでいきなりお楽しみいただけると思う。
なぜこの遊びが面白いのか考えてみたんだけど、それは安全な位置で純粋に疎外感だけを発生させられるからだと思う。
もしこの疎外感を日常生活で感じることがあれば、それはおそらく不快だろうし焦るし不安になる。
疎外感を感じる→人間関係をうまく構築出来ていない→一緒に行動しないといけないときに問題が生じやすく辛い というところまで想像するから、不快で焦って不安。というふうに、疎外感は通常他の感情を引き寄せながら発生する。
それがこの遊びでは、疎外感を感じても聴衆と一緒に行動しないといけないときは永遠に来ないので何も心配することはないわけです。だから存分に疎外感を味わうことができます。
高校生の時に「芸術とは感情発生装置」と自分で定義付けをして以来、その定義を採用し続けているわりに芸術論は勉強してないからこれが妥当かどうか怪しいんだけど、この「疎外感発生装置」を万人向けに(少なくとも日本人向けに)作ることができたら芸術かもなあと思う。
ところでWladimir Kaminerさんですが、面白い人ですので気が向いたら調べてみてください。ちなみにわたしはこの人を卒論で取り上げようかと思ったんだけど、現在生きているしそのせいで先行研究もないしで諦めた経緯があります。日本語文献とか皆無。調べてみてくださいとか言ったけど。だれかデキる人。
たしか、ロシア人なんだけどベルリンの壁崩壊のあたりのどさくさにまぎれてドイツに来て、ドイツ語で小説を書いたりDJしたりラジオしたりしているかっこいいおじさんだった。
参考)
Wikipedia(ドイツ語だけど)→http://de.wikipedia.org/wiki/Wladimir_Kaminer
Russendisko(ドイツ語だけど)→http://beta.russendisko.de/de/russendisko/
Russendiskoで紹介されてるこの動画かっこいいよね。Unveröffentlicht. Wladimir Kaminer LiveのCDにもおんなじような感じの音楽が収録されていて痺れる。かっこいい。おっさんかっこいい。一番左の人とかトランクみたいなケースをペットボトルで叩いているだけだけどかっこいい。
消費者というのは自分が欲しいと考えているものを本当に欲してはいない(第0章p4)
ランダムに書いたつもりでも、最初に意識に上ってくるアイディアが、一番ありそうなアイディアなんだ。そういうものは、既に気づいているにもかかわらず、考えることを止めてしまっているものだからだ。(第3章p43)
流行が確立すると、第二の、ずっと大きな集団が、恐れからその流行に加わる。それらの人々は、目立ちたいからではなく、目立つのが恐いからその流行を採り入れるのだ。(第3章p47)
もし主張が虚偽ならば、間違いだと指摘する以上に何か言う必要はない。わざわざ主張を異端扱いする必要などないのだ。(第3章p54)
お金は欲しい物を手に入れるための単なる中間段階、省略記法にすぎない。(第6章p97)
難しい問題を選ぶことから始め、決断が必要な場面では常に難しいほうを選べばよい。(第6章p107)
すべての言語が等価だと信じるデメリットは、それが真実でないということだ。だがそう信じることには、人生がよっぽど単純になるというメリットがある。(第13章p187)
人々があなたに注意を払うのは、あなたがそこにいることに気づいたときじゃなく、あなたがまだそこにいることに気づいたときだ。(第14章p214)-----------------------------
中国に興味があるとかそんなんではなく、特に理由なく手にとって読んだ。
そしたら割と軽快な文体で、面白い読み物だった。
科挙に合格するとか奇跡。東京大学医学部合格の確率と東京芸大合格の確率を足して30で割るようなかんじかと思う(イメージ)。しかしそんな科挙に挑む人はいっぱいいて、いっぱいいるからいろんなことが起こって、現代が傍から見られる状況なので楽しめる。これが、自分の現状を投影して読まなきゃいけない時代だと涙なしには読めないだろうなあ。
Amazonを見てみたら宮崎市定さんって明治の人らしくてびっくりしたのでWikipediaでも探してしまった。まさか明治に書かれたのでは、と思ったけどさすがに昭和でした。
抜き書き:
-----------------------------
中国では官吏登用のことを選挙というが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代になって成立した。(p4)
先生が、
学而時習之 学んで時に之を習う
と読むと、生徒がそのあとについて、シエ・アル・シー・シー・ツと大きな声をはりあげる。次に先が、
不亦説乎 また悦ばしからずや
と読むと、生徒も、プー・イー・ユエ・フと読んで、これを何べんとなく繰りかえす。しかし実際のところ、生徒は少しも悦ばしくないので、ついわき見をしたり、袖のなかで玩具をもてあそんだりしているのが見つかると、先生は遠慮なく叱ったり叩いたりする。先生は戒尺という扇子のような形のものをもっていて、これで生徒の掌や腿をたたく権利がある。正に、
教不厳 教えて厳ならざるは
師之惰 師の怠りなり
であって、厳格な教師ほどよいとされる。(p13)
中国では学問は同時に実践である。実践という意味は家庭内において、また社会に出て、大人として行動する時に恥ずかしからぬ行儀作法を身につけていることが第一に要求されるのである。そこで長上や同輩に対するお辞儀の仕方や敬語の使い方などを、初等教育のうちから先生に教え込まれる。ただ今日から見て物足りないのは、集団生活における社会的な紳士としての訓練がおろそかになっている点であろう。だから清朝の末年に、堂々たる外交官になってヨーロッパへ渡ったのは良いが、公の席で手鼻をかんで、西洋人をびっくりさせたような逸話の主人公も現れる。(p14)
八歳で入学して十五歳になるまでには、ひと通りの古典教育を終了するのが普通である(p15)
学校試は童試といわれるように、もともとは童子、つまり十四歳以前のものを対象に行う試験なので、それに対しては平易な問題を出し、また採点にも手心を加える。
ところが、そこへすでに冠をつけた老童生が割り込んでくると、それに対してはことさらに難問題を出して戸惑わせたり、あるいは辛い点をつけたりして差別待遇をする。それではたまらないと受験する童生の方は年齢をごまかして若く書き込む。ひどいのになると、四十歳、五十歳になっても、まだ元服前の十四歳だと称して受験する。黒々とした鬚があっては邪魔だから、きれいに剃り落として子どもに化けるのである。ほとんど皆が皆と言って良いほど年齢をいつわるので、受け付ける方でも、どこを境にして法規を励行していいか分からないので、鬚さえなければどんなに顔に皺がよっていても見逃してくれる。かくして四、五十歳の老童生までが十四歳以下の童子で通るのである。(p21)
貧乏人の入学は始めから無理なことであり、社会上に貧富による階級の区分が自然に成立して、金持はいよいよ富み、貧乏人はいつまでも下積みに甘んじていなければならないのである。(p46)
政府では受験者の苦労を考慮して一年で最も気候の良い時節を選んだのである。(p57)
閻魔さまや天帝は、その部下を使って世界中にアンテナを張り回し、人間の善事悪事をキャッチして、それに相応する賞罰をあたえる。人間は寸時も油断できないのである。これが中国で普遍的に行われる道教の実践道徳の根底に横たわる思想なのである。(p161)
今から千四百年も前の隋代に最初に科挙を行った(p181)
大臣大将やその他高官の子どもは、父の威光によってある種の低い官につく当然の権利を持っているので、別に科挙には応ぜずともいいのである。科挙はそういうつてのない低い階級の者のために開かれているのであって、そこへ貴族の子弟が割り込んでくるのは、ちょうど金持の学生がアルバイトに励むようなもので、貧乏人の仕事の領域を侵すことになるのだ。(p183)
この新興富民階級は争って学問に志すにつれて、彼らを顧客として出版業が大いに隆盛になった。仏教、儒教の経典はもちろんのこと、同時代人の文集、語録、時事評論の文までが出版され、政府でも官報を印刷して配布した。いわばマス・コミュニケーションの時代に入りかけたのである。その結果学問が広大な範囲にまで行きわたることになり、科挙に対する受験生はほとんど全国の各地から集まってくるようになった。政府は自由にこれらの中から優秀な者を選抜して、官僚予備軍を形成することができたのである。(p186)
小さじいちではレーズン、ライ麦、お米などから酵母をおこして、国産小麦やオーガニックフルーツ、自然のお塩とお砂糖などを選んでパン作りをしています。酵母をおこすのに一週間位、生地をこねてからでも15時間くらいかけて、ゆっくりじっくりと自然の力だけで発酵させています。ゆっくり作ることで、体に安全なことはもちろん、付け足したものではない、食材の持つ本当の旨味・甘みを表現したいと考えています。自然のことなので発酵は毎日同じではありません。パンの味も毎日違います。晴れの味、雨上がりの大地の味、木々のそよぐ今日の大山の味、楽しんでみてください。
過去記事にも貼ったので、RSSフィード登録してるような稀有な方がいらっしゃったらすみません。読んだのにまた届いているかもしれない。
前のブログでも少しの間Amazonアソシエイトしていたけど一度も収入があったことはないので、今回も期待していません。押したくなるような文章じゃないのも要因だけど、押したくなるような文章書こうと思えないしたぶん書けないし書けても面白くないから、ここはAmazonの提供してるあの商品リンクのデザインが悪いということにしようね。「Amazon.co.jpで買う」っていうボタンがダサいせい。
次くらいから自分で読んだ本の表紙とか写真とって、そこにAmazonに飛ぶリンク貼ってやろうかな。おいしそうなごはんの写真みたいに、面白そうな本の写真を撮る。めっちゃ挫折しそう。
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このあいだ中学生とガチ鬼ごっこした。いやそんなに鬼の形相ではなかったけど、中学生について行けなかった。もう何年も運動してないから当然だし、年の差もそろそろ二桁あるわけだし、対等に勝負したのがいけなかった。それでノーマル鬼ごっこはキツイので、慈悲深き中学生に頼んで色鬼に変えてもらった。色鬼って全国に通用する遊びなのかな。鬼が色の名前を言って、その色を触るとセーフ。触る前に鬼にタッチされたらアウト。だから色に触れれば休憩できる。
何回か鬼が入れ替わって、ある鬼が赤を指定した。鬼ごっこをしてた場所は公園で、赤は遊具のなかでも一箇所しかなくて、鬼はその赤の前に陣取って赤を目指す私たちを待ち構えていた。ああ中学生賢いなーどうしようかなーと思っていたら自分のペディキュアが赤いことに気づいて、わたしはその赤でセーフになることにした。同時に、中学生って言っても背伸びしてもないし失望もしていない、暇すぎて自分の体を持て余すようなこともしないとてもよく育っている子ばかりなので、彼女らがしているはずもないペディキュアの赤を利用するのは卑怯だなあと思った。でも卑怯さを持たないと、おばさんは体力を補えない。卑怯さ・狡猾さと引換に体力を失ったんだよ仕方ないよ。そのうち飴を持ち歩いて、いつでも、どんな色にでも対応できるようにおばさんは進化していくんだよ。
Mac OSX Developer ToolについてるグラフィックツールのQuartz Composerチュートリアル本。
未来派図画工作の人が作った。(参照)
全部読んでチュートリアルを全部終わらせたんだけど、すきま時間を使って2ヶ月くらいかかって終わらせたのと、頭が足りないのとでちょっとちゃんと自分のものになってるか自信がない。でもMacBookを買った理由の8割はQuartz Composerが使いたかったからで、この本でQuartz Composerがだいたいどんなものなのかを知って、これからやっと自分で考えて作っていく番になった。processingとContext FreeとQuartz Composerとどれも全部ちょっと覗いてみた段階だけど、Quartz Composerが一番とっつきやすい。次がComtext Freeで、Javaがわかるひとならprocessingはわかりやすいらしいけどわかんないひと(わたしとか)は一番手探り感が強い。とはいえどれにしたって必要なのは、どんな動きを作りたくて、それはどんな動きの組み合わせなのかを突き詰めることで、それも練習しないと意外と何もできない。作ることは観察や分析なしには行えないなあと思う。
高橋源一郎3冊目。長編。
愛の物語で、ほんとうの愛以外にこの世にほんとうに必要なものはあるのですか(いいえありません)、という内容で、反語よりも強い強調の表現のしかたがあるならそれに置き換えてほしいくらいで、こんなものは存在しないと思った。リア充爆発しろ、と何度も思った。小説なんだけど。で、爆発してしまったかんじ。
ちなみにこんなものは存在しないと確信できるし、それは意図されていると思う。存在しないのだけど0.000000001%くらいありうるかも、とみんなが実はこっそりと夢見ている分を集めて存在しない形で存在させた、力技でナイーヴな本だと思った。
抜き書き:
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汚れた画像だった。解像度が悪い画像という意味ではない。確かに、それは鮮明さを欠いていたし、不安定でもあった。だが、なによりそれは汚らしかった。単調な声で声明が読み上げられた。その間、ずっと、人質はうなだれたままだった。そういう時、人は何を考えるのだろう、とケンジは思った。(p12)
「誰かの話に耳をかたむける時、それが親愛な誰かなら、決して、その人のいうことを利用しようとか、そこから利益を引き出そうとか、そんなことは思わないでしょう。そして、その人も、あなたやわたしを利用するためではなく、純粋に、ただ話したいから話すだけでしょう。わたしは、そう思いながら、本を読みます」(p330)
子どもでなくなってからずっと、ぼくは、この世界がほんとうは好きではなかったのだ。だから、ぼくは、いつも急いでいた。(p360)
ぼくは、「戦い」というものがあって、若者はそれに参加すべきだ、と教えられたから、そうしたのだ。
ぼくは、「恋愛」というものがあって、若者はおおいにそれをすべきだ、とみんながいっていたから、それをしたのだ。(p361)
わたしは、おかしなものを書きたかったんです。調子の狂ったものを。すっかりとりみだしたものを。(p379)
母校の大学の入試対策のときに、「文学部の存在意義とはなにか答えよ」みたいな論文を書く過去問をして、そのとき自分は「世界の最後の砦としての文学部」を答えにした。世界が絶望したときに必要なのは死に向かう痛みを和らげるための物語または思想であり、そのときに機能すべきは哲学、文学、史学など思想や物語とその解釈についての学問を学んだ人である、のようなこと。
まあ実際は世界が絶望したときなんて大げさでありえないし、文学部に入るっていうのは趣味の問題だと思いながら書いた。就職活動を始めたら金を稼ぐという点での文学部の価値の無さも実感したし、入社して半年で辞めた仕事でも大学で学んだことは役に立たなかったし、実家に帰ってまたいくつか仕事を探して一応受かった仕事でも別に役立っていない。
でもさすがに、大学生だったころは物語の解釈の能力が高かったなあと思う。卒業してからろくに本を読んでいなくて、読まなさ過ぎて読めなくなっていたところ今すこしずつ読み始めたんだけれど、解釈がほんとうにできない。ハウツー本とか実用書とか新書とかそういう内容を明確に伝えることが目的の文章は理解力の問題だからわりと単純だけど、解釈は観察したり暗黙のルールを知ったり例外の多い定石を試したり最後はセンスだったりして、師範が必要でトレーニングを続けないとなまってしまう、案外とスポーツのような技術で、その技術を学べるように文学部があるんだなあと最近は考えている。だからってそれがなんの役に立つのかよくわからないのは変わらないけど。
そういえばここ数年間は世の中が物語偏重に感じられるんだけど(ケータイ小説とか完全に物語の受容に特化してるし原作のある物語を他の媒体で再構成するのが多いのも物語だけを吸い出す傾向だし)、もしかして世界が絶望しているんだろうか。
このあいだ借りた5冊のうち3冊は高橋源一郎だったので、次に読んだのも高橋源一郎だった。どうにもできない。
この「君が代は千代に八千代に」も前回の「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」と同じく短編集の体裁だけど、でもひとつひとつの話が薄く重なっているような気がした。「ミヤザワケンジ」は宮沢賢治の作品とも重なりつつ高橋源一郎の作品同士も触れあっている感じがしたので、それに比べれば「君が代」はシンプルなつながりだと思う、が、どれもおおよそセックスの話かグロだったし、それは読んでいて気持ち良くはなかった。
でもtwitterでだいたいエロpostや変態postが飛び交うし、だいたい人間はエロかグロが誰もが避けられない=誰もが参加出来る共通の話題か。「それは本の中/おまえのTL/おまえの周囲だけだろ自分には関係ない」というのは見ないようにしているだけで、お前だってエロでありグロなんだよ。って思って、読むの気持ち悪いのに読まされてた。本に。
表題はよくわからない。君が代は今エログロですけど千代に八千代に続きますように、かな。
抜き書き:
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幼児はたいていのことがわかっている。(「Mama told me」)
「甘いね、ボス。誰がシナリオ書いてると思ってんの?北川悦吏子だぜ。ヒロインが死んで終わりに決まってんじゃん」(「殺しのライセンス」)
「火星人?火星人なんかいるもんか」おれはいった。
「じゃあ、金星人は?」
「それもいないね」
「なあ、もしかしたら、おれたちってほんとうはもういないんじゃないか?」(「SF」)
言葉を疑うことを知らない。他人がしゃべっている言葉を自分が書いている詩と同じようなものだと思っちまう。中学生の頃からまるで進歩してないんだ。どうしようもない。女はたいていそうだ。特になにかを書いている女は。その中でも、詩を書く女ときたら。(「愛と結婚の幻想」)-----------------------------
このところずっと本が読めなくて、どのくらいずっとかというとゆうに半年は超えるくらいにずっとだった。ここ2ヶ月くらいでだんだんと読みたくなって雑誌から入ってみたり本棚の積読から選んだりしていたけれど、進まない。E.H.カー「歴史とは何か」は三分の一くらい進んだけど伊坂幸太郎「アヒルと鴨のコインロッカー」は1ページも無理だった。伊坂はちょっと読書好きな中学生も読んでる作家じゃなかったのか。読みやすく面白いということなんじゃないのか。ぐぐう。
それで、地元の図書館が夜8時半まで開いているし行こう、という話に昨日なったときも読みたい本が見つかることは期待していなかったのだけど、帰るときには5冊持っていた。
5冊のうち最初に読み始めた本が高橋源一郎「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」で、「ぐぐう」ってなに。すらすら読んだ。
以下抜き書き:
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テレビの中では戦争がはじまっていた。飛行機が砂漠に爆弾を落としていた。オッベルの見る限り、画面に映るのは砂漠ばかりで、なぜそんなところに爆弾を落とそうとするのか、わからなかった。
砂漠の真ん中に大輪の花がいくつも咲いた。
戦争にも飽きたので、オッベルはチャンネルを替えた。今度は、バスに乗って若い男や女が、あちこち移動する番組をやっていた。(「オッベルと象」)
「その…ネットワークは、なんでも仲介してくれるのか?」
「もちろん!そうでなければ、ネットワークの存在理由がありませんからね」
「神もか?」
「お客さま、それならわたしでも仲介できますよ」
「ほんものを?」
「えっ、ほんものの必要があるんですか!」(「オッベルと象」)
そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人というよりは白熊といった方がいいような、いや、白熊というよりは雪狐と云った方がいいようなすてきにもくもくした毛皮を着た、いや、着たというよりは毛皮で皮ができてるというた方がいいような、ものが変な仮面をかぶったりえり巻を眼まで上げたりしてまっ白ないきをふうふう吐きながら大きなピストルをみんな握って車室の中にはいって来ました。(「氷河鼠の毛皮」)
「耐えられないのじゃない?」ぼくは正直に答えた。
「 わたしがかい?」
「人間が、人間であることに耐えられるとは思えない」
「なるほど。それは正論であるのかもしれない。また、そのように考える人も多い。だが、それは買いかぶりというものだ。簡単にいうなら、人間はあまり考えないようにしている。あらゆることをだ」
「能力を使わないということ?」
「そうだ」
「では、能力を使わずに、なにをするの?」
「多くの人はなにもしない」(「グスコーブドリの伝記」)
『読む』のにふさわしいなにかを見つける以上に難しいことを、わたしは知らないよ(「グスコーブドリの伝記」)
そこは、それからずっと後になって、「学級崩壊」だの「引きこもり」だの「イジメ」だの「キレる小学生」だの「日教組による教育の荒廃」だの「戦後教育の欺瞞」だの「権利ばっかり主張させたので義務を忘れた子どもたちが生まれた」といった事柄の起源となった教室なのだけれど、その当事者であるわたしの目から見れば、西日が射す、なにか熱っぽい雰囲気の漂う、でもけだるく寂しい場所にすぎなかった。(「プリオシン海岸」)
なぜなら、夢は一つ一つの個体が見るものではなく、その上に存在するものが見るものだからだ。(「プリオシン海岸」)
『贈り物』なんのためにするのかね。それを贈って、なにか自分に役立てるためかね?そんなものは『贈り物』とはいわない。『賄賂』というのさ。『贈り物』は、自分以外の誰かのために贈るものだろう。(「水仙月の四日」)-----------------------------