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哲学と制度は相性が悪いけど、美術は制度化できる。けど思想・哲学を兼ねた美術、美術を兼ねた思想・哲学は、制度化すると同時に制度化を拒否する。けどそこに資本主義が結びつくことで、そういうものでさえも商品化が可能になる。そしてそれが変形を重ね、捻りを繰り返すことにより「何だかよくわからないもの(※実際は一見そう見えるだけ)」も換金の対象になる。←今ここ。
その現実を否定すると、お金から遠ざかる。けど現実は、そういう態度さえもお金に換金されていく。価値にもつながっていく。無視してもいいけど、そういう世界にいることは間違いない。そこに対してどういう態度で望むのか。それは各個人の自由。それぞれにいい面もあれば悪い面もある。
正解はない。自分がやりたいもの、やるべきものが何なのかっていうそれだけの話。他人に強要しても意味が無い。
3 days ago
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「わからない」とは、わかるための下準備がその人の中でされていないってこと。情報、経験、脳の仕組み、筋肉の厚み、etc、いろんな要素の中のどれかが決定的に足りていない。「わかる」とはその瞬間、ジグソーパズルを完成させるみたいなこと。ピースが足りていないのに、わかるなんてありえない。
わかるためには、わかるためにピースを揃えるしかない。けどそのピースは、無限にあって、人が「それはピースたり得ない」と思うものまで実はピースだったりする。だから難しい。だからこそ、わかるとは尊い。わかる方が奇跡だ、わからないのが当然だ。世界をなめるな。簡単にわかることなんか一つもない。わかったことそれ自体が、新しい分からなさのピースの一つになる。
分かっている人が、わからないひとに対して批判を展開しても何も意味が無い。わからないものはわからない。わかってもらいたかったらなんでわからないのか、考えるしかない。探るしかない。けど、他人に対してそんな時間を使っているほど、人生は長くはない。だから分かり合えることに過剰な期待はしないほうがいいし、けどだからといって、それを放り投げてもいいってわけでもない。難しいけど仕方がない。悲観しても意味が無い。それを楽しんだり悲しんだり、とりあえずそういうもの受け止めて生きていくしかない。それでいいし、それしかできない。
わかるってことは奇跡的なことだけど、だからこそわかるってことばかり目を向けちゃいけない。「世界にはわからないということばかりが溢れていること」を前提に、「どうしていくのか・していきたいのか」を考えて実践していく他ない。
そこにどういう色付けや化粧、ニュアンスを込めていくのか。
どうしていくのか・どうしたいのか。
5 days ago
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よく美術の世界で「100年(以上)耐えうるものを作る」というけれども、それは「今すぐ順位を付けれない美術の世界において"ナンバーワン"を目指すということ」と同じで、それが美術作品の個性や強度に繋がってんだと思う。
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※補足
上の言葉が答えとして出てくるまでに考えたこと。
「ナンバーワン」とは一体何か?
1) 「ナンバーワン」とはそれ自体でも確かに強いんだけど、けどそれ以前にそのナンバーワンを決めるための枠組みの設定というものがあって、その枠組みは自らの特性をナンバーワンにして「個性」を仕立てあげるためにある。
2)「それだったらなんでもナンバーワンになるじゃん?」って話にも聞こえるけれども、その設定された枠組が魅力的なものでなければどうしようもない。そして世間で歌われるオンリーワンとは、端から見たら魅力が乏しい枠組みでしかない事が多い。
3)そして魅力があるとは往々にして、一側面だけのおもしろければいいという単純なものではなく、幾つかのおもしろさが絡みあった複合的なものであって、それはナンバーワンであっても同じだ。
4)おそらく「ナンバーワン」は、人に対して使う「やさしい」の立ち位置に近くて、それ自体は確かに魅力的なものなんだけど、どちらかというと「ナンバーワン」「やさしい」自体のみでずっと自立し続けることは難しくて、何か別の魅力とセットなった時に、遺憾なく力が発揮されるものだと思う。
5) あと、正確に捉えるならばナンバーワンは「魅力」というより「説得力」。説得力がないと魅力は肯定されづらい。アーティストだとそれは「信用」にあたる。
まとめ) ナンバーワンになろうとすることは、いかにして個性を形作っていくのかを考えると同時に、どうやったらそれが説得力を持ち得るのかを考えるということ。つまり、ナンバーワンとは説得力であると同時に「ツール」なのだ。オンリーワンになるにはナンバーワンになることを抜きにして語れない。
7 days ago
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周りに人間ばかりがいる環境にいると、人間は自らが手に入れた力を対人にばかり使ってしまう。けどそれじゃ争いは膨らむばかりで、それを防ぐためにも人間にとってある程度「自然」というものは必要なのだなと思う。力を対人・対自然と分けて使うことでいいバランスが取れて、同時に緩やかな共同体ができてくる。
11 days ago
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"他人に対して優しくするには色々なやり方がありますが、「ほっといてあげる」というのは、その中でも一番難しい接し方です。でも、適切なしかたで「ほっといてもらう」ことほど人間にとって心休まることはないのです。
誤解しないでいて欲しいんですけれど、単に「ほうっておく」とは違うんですよ。「ほっといて『あげる』」「ほっといて『もらう』」ということばづかいから分かるように、それが敬意の応酬であることが双方にはちゃんと意識されているんですから。
ほんとうに親しい人達の間では、ときには「何もしない」ということが貴重な贈り物になることもあるのです。でも、こういうことには、「コミュニケーションとは贈与である」という、ものごとのきほんがわかっていないと、なかなか理解が及ばないでしょうね。"
- 内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』より引用
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最近、「何も言わないこと」「ほっといてあげること」が最大のコミュニケーションになることの難しさについて考えることがあったんだが、この文章を見て、その答えがスッと入ってきた感じがした。
自分の場合はどうだろうと思い返してみた時、「この人はあえて何も言わないことで自分に何かを言っているんだ」っていうケースはいくつかあって、そういう人達がどういう人か考えてみたら、自分にとって紛れもなく近しくて親しくて大事な人達ばかりしか浮かばなかった。
年に1,2回しか合わない友人であってもそれは同じで、たまーにしか会わなかったり話さなかったりするんだけど、直接会ったり話たりする以上に、会ったり話していたりするんだと思う。
けど自分が相手にとってそういう存在になれているかって言ったらそれは疑問で、その「何も言わない」という態度(コミュニケーション)は、自立した強い個というか、やさしく強い人でないと与えられない貴重な贈与なのだと思う。だから全然まだまだだなと。
11 days ago
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youtubeでフラッシュモブ系の動画を見ていると、どんな表現にもその表現なりの力が確実にあって、だけどその力が発揮されるのがいわゆるお決まりの鑑賞方法や発表方法の中にあるとは限らないことがよく分かる。お決まりの鑑賞・発表方法に浸かることは、きっとマニアがすることなんだと思う。
2 weeks ago
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「エロ本を作ろう」という写真のワークショップあったら、みんな撮影技術も「写真とは何か?」っていう思考もどんどん伸びていくと思う。
2 weeks ago
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やはり、言葉というものは何も持たない(と思っている)人の唯一の武器だと思う。ただそこにいる多くの人が「自分には何もない。。。」と嘆いているがために、多くの場合言葉はただの言葉に終わってしまう。武器にするかどうかはその使い方次第。言葉という武器が嫌ならば別の武器を取りにいくしかない。自分には言葉しかないというのであればそれで戦う術を覚えるしかない。ただ、言葉とはほとんどの人が持ちえる武器だ。そういう過酷な状況の中で、いかにして言葉を「武器」にすることができるのか考えること。それと同時に、本当に言葉「だけ」で生き抜けて行けるのか考えること。つまりとどのつまりは、「自分には何も無い」とか言っている場合じゃない。
4 weeks ago
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んで、つんく♂さんの楽曲派としての強みについて考えたことと秋Pをつなげた考えたこと→「企画」というものの性質について
AKBの楽曲聴いていて、楽曲のマンネリ化を感じながら、プロデューサーが楽曲派か否かっていうのはアイドルを長く続けていく上でものすごく大事なんだろうなと思った。つんく♂は駄曲を書くけど、マンネリ化しない。
秋Pが得意なのは確かに企画物だけど、楽曲として強度があるものを作らないと手がけたものは結局は秋元康の企画としてして存在できない。それだけで自立できない存在になってしまう。
企画というのは結局はその企画を考えた個人にしか回収されない性質を持つ。ただその企画という部分を超えて、ある強度というか普遍性を獲得すると、その企画者本人を超えて自立した作品になる。
企画はやはりその作り手である本人にかなり依存した資質をもっているんなんだと思う。だっておニャン子クラブが一世を風靡したといっても、その当事者以外が知っていたり覚えていたりするのは『セーラー服を脱がさないで』と国生さゆりの『バレンタイン・キッス』ぐらいだ。
だからいわゆる他人の企画物に乗っかるということは、悪く言えば「その企画のコンテンツになる」ということであって、逆にその企画の性質に回収されることに自覚的であれば、企画を乗り越えるぐらいの自立した、強度がある作品を作るチャンスに恵まれるってことだと思う。
その企画というものの性質を仮想的というと大げさかもしれないけど、けどそういう考えをしたほうが物事はいい方向に回るし、グループ展というものはなかよしこよしでやるよりも、殺し合いをしたほうがやっぱいいもんだなって思う。
5 weeks ago
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赤瀬川原平「見ることへの体重移動」(美術手帖 2004年8月号)からの抜粋
"路上観察にしろトマソンにしろ、それが面白いといっても、それはただ見ることで、作ることではない。それでいいのか。ちゃんとした作品を創出しなくていいのか。そんな思いが隠然と、脳の片隅から消えずにあった。"
"カメラをどじょう掬いの笊のように構えて街を進みながら、その笊に採取されたものの魅力は、それらが透明感をまとっているということだった。人間の作為にまつわるねちねちがない。ねばならぬのねばねばがないというか。つまり自力思想の外に出ることのできた快感というものが、見ることの中に潜んでいるのを、徐々に自覚していったのである。
そのことに確信を持ったのは、白洲正子の自画像をみた時であった。生前に何度かお会いする機会があったが、没後、ある雑誌で特集が組まれた。その時、屋根裏から若き日野自画像や油絵の習作が見つかったので、それを見て白洲論を、ということで見せていただいたのである。
一目見て苦しい油絵だったが、ああ、白洲さんにもまず描かねば、まず作らねばという、見ることを二義的とする思いにのしかかられた時期があったんだと直感し、感無量だった。それをしかし自らの絵筆の不器用という才能によって、重苦しく克服しながら、見る方を優位とする世界を抜け出ることになったのだ。
自分にも身にしみてわかることである。絵が好きで、その良さがありありと見えているのに、自らの不器用によってそこから隔離される。美が見えてなければ不器用でさえないものを、美が見えるから、不器用の壁があらわれる。そんな自分を通して、人間が作ることの壁と見ることによる壁抜けを、確信として持ったのだろう。
もう一つは岡本太郎だった。この人も既に亡くなっていて、その存在、内容については言うまでもなく有名だけど、彼が写真をあんなに撮っていたとは知られていないことだった。
ぼくも学生時代、岡本太郎の本にずいぶん勇気づけられたし、その考え方や言動に感動した。でもその油絵などの作品は、もう一つ好きになれなかった。言葉の論理に導かれてすごい作品だとは思うのだけど、好きという正直な感覚に到達しない。
ところが死後、壮年期の取材活動で撮影したものが写真集として出版されて、それを見て圧倒された。文句なく好きになった。岡本太郎はじつは見る人だったんだと直感した。はじめて眼前に現れる日本列島の、末端部の、物陰の、微細部分をむちゅうになってとっている、その踊るような眼差しに吸い込まれた。この人、作品よりも目のほうが飛び出している、と思った。
岡本太郎は描くこと、創ることを第一義として出発しすぎて、そのことに齟齬を感じながらも、あるいは齟齬を感じる暇もなく創ることに殉じてしまっていたのではないか。"
7 weeks ago