千代田夏夫

Chiyoda Natsuo。ミュージシャン。作詞・作曲・歌手。

 アメリカ文学、クイア・スタディーズ研究者としても、諸大学で教鞭を執る。
京都市出身。ただし生後一年間は鹿児島で過ごす。

chiyoda.natsuo@gmail.com

Sets

8 tracks (28:17)
  • エンターティナー
    228 plays
  • スケープゴート
    159 plays
  • untitled
    138 plays
  • passing beauty
    135 plays
  • かなしみ
    121 plays
  • ぼくの愛
    114 plays
  • いまのわかれ
    96 plays
  • エスケープ
    107 plays

Posts

April 05, 01:52 AM

 新年度が始まりましたが、みなさま如何お過ごしでしょうか。
猫のくまこ、くろべえに加えてこの春わが家のガーデン・メンバーにはもうひとり、
アナグマのアンナが加わりました。
三週間ほど前、ピアノを弾いていてふと横を見ると、
だいぶん丈高くなった草むらをえっさかえっさか掻き分けるようにしてお隣のほうへゆく、
ベージュ色の、もこもこした後ろ姿がある。
白昼夢でも見たかしら?と余り深く考えずに二、三日後の夜、
食堂のテラスでカリカリキャットフードを食べる音がするので、
くまこかな、くろべえかな、とカーテンを引いてみたら、
どう見ても猫でない動物と目があった。
しばらく見合ったのち微動だにせず再び食事をつづけるそのひとをじっくりと観察、
あるかなきかの短い耳に長く伸びた鼻、そして発達甚だいちじるしい前脚の指と爪が
特徴的です。
かなり明るい白茶のからだに、目と鼻梁、つま先だけが黒い。
後姿を見て以来、
ハクビシン、アライグマ、タヌキ、はたまた鹿児島でも野生化していると教えられたマングース等々、心づもりは幾つかあったのですが、
見事な指と爪からあたりをつけて調べてみましたら、
アナグマ(正確にはニホンアナグマ)でした。

七、八年前、祖父の書庫を整理したとき出てきた、
地元の新聞の「大隅の動物たち」という、私の生れる以前、
大昔の連載の大量のスクラップ、
クリップで留められたその一番上にあったのが、アナグマの回だった。
いわく、「同じ穴のむじな」と言うけれど、
あれはアナグマは爪が発達しているので巣穴を掘れるけれどムジナはそれが出来ないので、アナグマの巣に同居させてもらっている、という話だった。
爾来その記述だけは片時も忘れずに生きてきたが、
幾星霜を経てこのたび晴れの御対面となったわけである。
アンナのからだは猫としてはかなり大きなくろべえの一・五倍はゆうにあるし、
とにかくよく食べるので、先住者のふたりとの折り合いを心配したが、
今のところそれぞれ時間をずらして上手くやっているようだ(食事に関しては)。

今日はM叔母の誕生日なので、
通勤前に家から二十分ほどの叔母宅にプレゼントを持っていったのだが、
その道すがら、私の家のある高台から谷一つ挟んだ向こうの山(桜ケ丘といって、
鹿児島大学の医学部歯学部がある)の半分が、
文字通り半分が、削り取られてすっぽりなくなっているのには心底驚いてしまった。
宅地が出来るのかキャンパス拡張かよく知らないが、
これではアナグマも逃げてくるはずである。
猫と比べて馴染みのぐっと薄い動物だし、
瞳孔が狭いので目を合わせても何を考えているのかよくわからないし、
額にはピンク色のあざのようなものもあってとにかくよく食べるしで、
ちょっとあんた、くまこたちに皮膚病とか移さないでよ〜食べすぎじゃないの、
ちょっとは遠慮しなさいよ〜、
などと狭量なことをつい口走ってしまいがちであったが、
今日からはもう少し優しく接しようかと思う。

初めてアンナの姿を見た三週間前から庭の草はさらに伸びて、
その名に恥じず、そこだけ掘り返されて黒々とした土肌を見せる穴が日ごとに増えてゆく。
あの爪が優秀な鍬ともなるのであろう、実に柔らかく、
うっかりそこを踏むとずぶずぶ足が沈んでゆく。
まさに獣みち、我が家の庭というより彼らの家というべきなのかもしれない。


4月5日


January 24, 12:34 AM

 

巨勢山乃 列々椿 都良々々尓 見乍思奈 許湍乃春野乎
こせやまの つらつらつばき つらつらに みつつしのはな こせのはるのを
万葉仮名の踊り字を横書きで打つのはこれで宜しいのか・・・
ともかくも萬葉集第一雑歌五四、坂門人足が持統天皇にお供して詠んだ歌、
今期初めの昨秋、生協で入手した『補訂版萬葉集本文篇』でただいま確かめた次第である。
紅の藪、茶筅のように蕊のひろがった白の肥後、赤地に白が被さった糊こぼし、
桃色に真紅が血潮のように入る八重の大樹、また晩秋から早々と花をつけ始めた清冽
透きとほる白と呼びたいような侘助もいまだ一輪づつ咲き継いでいる。
「南椿庵」(なんちんあん)というのはじじむさいから「荘」にしたらとも言われるが、
まあいおり位でちょうど良い我が家である。
十日ほど前には匂いすみれ「ラ・フランス」の濃厚な紫も見つけた。
巨勢は今でいう奈良県南西部の御所(ごせ)、私も二度ほど歩いたことがある。
この前は四年前の雨の晩秋、椎間板ヘルニアの痛さに泣きながら鎮痛剤をかじりつつ、
ふと足もとを見やった先の一面の秋のスミレを忘れない。
ちなみにその時の記録がこちらhttp://chiyodanatsuo.jugem.jp/?day=20091111 
この日と同じ靴を今日も履いている。

1月24日

January 16, 03:50 AM
今朝は寒くて寒くて五時半に食堂の窓を開けたら真っ暗な中にくまこが座っていたので
キャットフードを出してみたが、ぷるんと一回
肩をそびやかしただけだった。
この一カ月は歯が痛くて痛くて週に
三日の歯医者通い、
前回は(治療の)痛さがまるで脳天に水飴を流
し込まれたようで、
痛覚は極まると甘さに至るのかと思いもかけな
い発見があった。
いつも大抵授業の前に予約を入れるが、今朝家の
門を出ると、
お向かいの生垣に今年初めての(いつもこればっかり・
・・)うぐいすが来ていた。
初音、という言葉をつい思い出す。徳
川の姫君のお輿入れ道具に
そんな銘の付いた鏡台かなにかの一式が
あったようにも思うが・・・
もちろんまだ鳴きはしない。治療室で
はいつもクラシックが流れているのだが、
今日はベートーヴェンの
スプリング・ソナタの一楽章であった。
この前母と合わせたのは昨
秋あたりであったか。ゴールドベルクが生前、
(そのタイトルが他
人につけられたのはよくある話として)
この曲はスプリングなんてものじゃない、もっと
激しい、ドラマティックなものなんだから!
仮に「春」としたって
、それはドイツやスラブの厳しいきびしい冬を
やっと乗り越えた果
てのものなのだから!と飽かず言っていたということを思い出す。
一昨年、生まれて初めて一週間入院をしたとき彼と美代子伯母の、
朋学園での公開レッスンのDVD(全7巻!)をずっと観ていたが
スプリングの回でもとにかく「もっと出して!」の繰り返し。
中で冒頭一小節を「(ダウンでダメなら)アップ・ボウから始めてみたら?」
と言い出したのには驚いた。通常あの弾き出しは穏やか
な春の日射しのごとく、
なだらかなダウン・ボウから始めるものな
のだ。
もとい、弓遣いというのはヴァイオリン演奏において非常に
重大な問題であって、
おいそれといじれないものなのだが、それを
こともなげに。
そんなにも自由なものなのか!!そしてそれは、も
っと厳しい音楽性の問題を前に
ギミック(小細工)にこだわってど
うする、という彼のあの小さな身体と
柔和な表情からは思い及びも
つかなかった檄だったのである。
久しぶりにスプリングを弾きたい
が一人ではしょうがない、
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ
というのはピアノとヴァイオリンの二重奏であって、
かつて米国で師
事していたオルブライト先生は「本番でもヴァイオリン譜とピアノ譜、
二冊並べて見ながら弾きなさい」と極端なことまで仰ったもの
である。
そんなわけで今夜も私はショパンの幻想即興曲
(これもま
たショパンの意に関係なく没後につけられたものである)を、
鍵盤
につっかえつっかえ弾くことでしょう。

1月16日
January 08, 11:11 AM
ピーナツバタ・トーストのデジュネを終えたところです。
(初めて
一人でフランスに行ったとき、お昼どきに手ごろなレストランで
ティ・デジュネを食べたい欲しい、と繰り返しても
「ウチではプテ
ィ・デジュネは出さないのよ〜」と微笑むばかりの店のマダムと
押し問答を
したことがある。ようやく、「プティ・デジュネじゃなくてデジュネならあるけれど」
と彼女はにんまり。フランス語でプティ・デジュ
ネは朝食の意、
私とてべつに「ちょっとした(プティ)昼ごはん」
を食べたい、と言っていたわけではなくて
ただのケアレス・ミス(
?)だったわけだが、京都風にいえばイケズをされたわけだ。
でも
それこそプティ・ギャルソン・オリオンタル―可愛い東洋の少年
は?まあ16歳だったから)をパリの熟女がちょっとからかった、という風情だったから
今でも悪い思い出ではない)。鹿児島ではど
ういうわけか、
このピーナッツ・バターというものが中々売ってい
ない。
市内唯一の百貨店の地下の片隅で、ごくありふれた粒入りスキッピーを、
二た瓶きの
う購入してまずは安心満悦というところ。
(ピーナッツ自体は砂地
だから栽培しているはずだし、
ピーナッツ豆腐というのはポピュラ
ーな薩摩の食物です)。
今日のお昼のガーデンはシロハラ、キジバ
ト、ヒヨドリ、
そして今年初めてのメジロちゃん数匹とかなりの豪
華版(別に食べた訳ではないが・・・)。
メジロは赤白の萬両や未
だ色づかぬ八つ手の実のあいだを
シュッシュッとタテヨコななめに
空を切るので、確かめるのに時間がかかりました。
キジバトはゆう
ゆうと、枯葉と紛うベージュ&ブラウンで、
祖父の家の庭から移し
た「田の神さあ(たのかんさあ:鹿児島独自(?)の、
読んで字の
ごとく田の神様。しゃもじをもっている)」の、
苔むした石像の前を
横切っている。
そしてクスノキの枝にとまったシロハラの姿の良い
ことよ。
ヒヨドリは空と庭との境の柵にひとりで横を向いている。
色のとりどりはもとより、それぞれの動きが巧まざる変拍子を打ち出して、
冬枯れの庭が立体的に浮かび上がりました。

1月8日
December 09, 12:16 AM
今年は柑橘類がとてもよくて、文旦などぼんぼん実ってはそのまま地面に落ちてゆく。
M叔母と従妹のAとその息子Sがシロップ漬け
にするといって、
バスケットにいっぱい7-8個持って行ったのが
二か月ほど前か。
そのあとしばらくしてまた落ちているのを自分で
拾って、
赤黒に漆を塗り分けた大きな削り(はつり)椀に飾ってビュ
ーローの上に置いた。
今日また庭に出てみると、そのオーチャード
(果樹園、
と勝手に私が呼んでいるだけですよ、いつものデンです
)の一画には、
幾たび目かの文旦の鈴なりに加えて、
金柑、八朔、夏
蜜柑など黄や橙のちょっとした氾濫である。
温かに色づいた八朔を
ひとつもいでみた。皮は柔らかい。
剥いて食べてみると思ったほど
甘くもないが、
もともと植えっぱなし実りっぱなしにしているもの
だから当然である。
しかし夜も更けた今、その皮を二片ほどマグの
底に置いて上から紅茶を注いでみたら、
まあ欲目(欲味?)もあっ
てか中々の香りそして色立ちであった。
甘味に欠ける八朔は薄皮を剥いて蜂蜜をかけて
蔵庫で冷やしておけばよいお八つになるが、目下そこまでの余裕がない。
文旦、またの名を晩白柚(ばんぺいゆ)、宿り木などと組み
合わせて
お正月の御飾りにもしますね。 

〈悼詩〉 ボンタン実る樹のしたにねむるべし/
ボンタン思えば涙は流る/
ボンタン遠い鹿児島で死にました/
ボンタン九つ/ひとみは真珠/
ボンタン万人にかわいがられ/
いろはにほへ らりるれろ/ああ らりるれろ/
かわいいその手も遠いところへ/天のははびとたずね行かれた/
あなたのおじさん/あなたたずねて すずめのお宿/
ふじこ来ませんか/ふじこおりませんか 

室生犀星「或る少女の死まで」、作家の自伝的要素の色濃いこの作
品の、
巻末に置かれたこの詩は母の大のお気に入りで、子供のころ
に繰り返し聴かされた。
むかしNHKで文芸作品の朗読を映像とと
もに流すという、
ラジオドラマのテレビ版みたいなことをやっていて
―今も同種のものを放映しているのかもしれないがTVを観ないので知らない―
ちょうどこの詩を聴かされていたころ、同じ犀星の「
性に目覚める頃」が毎日、
10分か15分か放映されていた。男声でその名が番組冒頭に読み上げられるたび、
随分ケンノンな題名だと思っていたものだ。
画面では、小説
の各場面を写した水彩スケッチのようなものが流されていたと記憶する。
いま、引用のために持ち出した岩波文庫にはこの二作品が続
いて収められている。
「Mちゃん(母の名)は最近どんなものを読
んでいるの?」
その昔一番上の大伯父に訊かれて「犀星です」と答
えたら、
「ボクは犀星って嫌いだな」とニベもなかった由、こちら
もセットで必ず付いてきた。
「どういうところが嫌いだったのかし
ら?」幼い僕が母に尋ねると、
「さあ、読んだことなかったんじゃ
ないの?」と、こちらもニベもなかった。


12月8日深夜
October 22, 02:54 PM

 論文がはかどらないので、
本置場に使っている階下の応接間で辻邦生の『夏の砦』を探したが見つからず、
代わりに梅崎春生の「桜島」が出てきたので、居間のソファに寝っころがって
読み始めた。ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタのCDを回していたが、
とても耳と頭が双方についてゆかないので、消した。

>七月初、坊津にいた。

坊津基地から桜島基地に転勤を命ぜられた、
「私」こと暗号員の村上兵曹が辿る道には、
枕崎、谷山、鹿児島市街、そして桜島、
どれも幼いときから私の親しんできた地名が並ぶ。
今日も大学から谷山行の市電に乗って家まで帰ってきた。
「鹿児島市は、半ば廃墟となっていた」という一文まで来て、
鹿児島は空襲があったから全部焼けたのよ、という、
生前の祖母の言葉が、今夜になって冷やかに身を浸してくる思いだった。
作中、
「それは、青いものが一本もない、代赭色の巨大な土塊の堆積であった。
赤く焼けた溶岩の、不気味なほど莫大なつみ重なりであった」
と記される桜島、その姿は勤務先の鹿児島大学のキャンパスからもよく眺められるが、
表情は毎日驚くほど違う。
今日はさえざえと、灰色の濃淡にくっきりと隈どられていたが、
いったい、この春から毎日この山と対峙するようになって最も私の心を占めているのは、
緑が増えたのではないか、ということである。
私が子供のころ、桜島の溶岩林に入ったら方向感覚が失われて、
生きては出られないのよ、とよく聞かされていたものだったが、
いま、こちらの人たちにそのようなことを確かめてみても、なんだか要領を得ない。
八合目あたりまで緑の繁って見える日もたびたびある。
じっさい植生はどんどん変わってきているらしい。

「桜島」の時系列は、
沖縄もすでに玉砕したのちの終戦直前から、
玉音放送当日すなわち昭和二十年八月十五日までである。
私の祖父が大学院を出て、
東京から今の鹿児島大学の前身である旧制七高に着任したのが昭和十六年、
1941年のことだった。
ちなみに曾祖父(祖母の父親)に至っては、
大学院生活の傍ら文部省の嘱託を務めているときに、
やはり七高赴任を命ずる伝達が来たのが大正十年、
1921年ということだから更に二十年遡ることになる。
さて番町小学校卒業が自慢だった東京っ子の祖父が、
鹿児島とはどんなところかとやって来て間もない或る日、
街のどこかからか、ベートーヴェンのト長調のメヌエットを弾く
ヴァイオリンの音が聞こえてきた。
その時、「ああ、自分はここでもやってゆかれる!」と、
気持ちをハッキリ定めることが出来たという。
これは本人から聞いたことではなくて、
1991年の夏、脳生理学者の有村章先生から、
ニューオーリンズのご自宅で伺ったことだった。
先生は祖父の七高時代の教え子でいらした。
確かに私がその曲を弾くと、祖父の機嫌が非常によかった。

ニューオーリンズは若かりしころの両親が学んだ町でもあるが、
同じルイジアナの州都バトンルージュで学ぶKさんから便りをもらった今日、
外はいま急に嵐となった。

10月22日深夜

October 21, 04:33 AM

 穏やかな、おだやかな秋の日。
月末締切り3本抱えた身ではあるものの、お昼にパスタをつくる。
にんにくを4-5カケ、斜めに包丁を入れながらコロコロの乱切りにする。
切り落としの分厚いベーコンと一緒に、
グレープシードオイルで炒める。
うんと弱火で焦げぬように、気長に火を通すことである。
アーリオ・オリオを気取りたいのでにんにくを沢山使うが、
オリーブオイルでソースを作ると少し癖が強く出過ぎそうだったので、
グレープシードオイルにしたわけです。
傍らで茹であがったリングイーネをゆで汁と共に注ぎ込んで、
出来上がり。
ものは切りようとはいうものの、
薄くスライスしたときには味わえない、ホクホクとした栗のような味わいのにんにく。
買ってきたばかりのオリーブオイルとパセリを食べる直前に皿の上にかけ回して、
茹でたブロッコリを合間につまみながら満足の昼食となった。

雑木林の中を風が抜けてゆく。
決して大層な家に住んでいるわけではなく、
高台にたまたま庭が扇形に広がっているので、
家の中から両隣の家が見えないだけである。
秋のばらが一輪ずつ、桃、真紅、黄色と順ぐりに開いてゆく。
まだ下草は緑を保ち、その中に小さな蓼の紅や、
流石に秋とて、うんと小花になったツユクサの青が散らばる。
郵便受けの下のホトトギスの茂みは今が盛り、
こごった臙脂いろの斑点を豊かに脹らませながら、勝手口に続く道にまでせり出して、
門番のように侵入者のゆく手を阻んでくれている。
日暮れ時になると、父親執心の夕顔の花
(京都の植物園で買ってきた苗を私が新幹線で運んできた)が咲いて、
一晩じゅう夜目にきわやかである。
四、五日前ひと月半以上待ちかねていた雨が一日降って、
庭の裏といわず表といわずおちこちに、水仙の青い葉がそっくそっくと伸びだした。
白い日本水仙の花はピオ(妹。猫、享年19歳)が一番好んだ花、
この時期くまこは水仙守りとして夜を徹するのだろう。

10月21日

August 30, 05:49 AM

 何日か前、植木屋さんが来て名残の夏草を全て刈っていったけれども、
ひと雨降ると、すぐまた、ぐいぐいと青い芽が伸び出してくる。
先ほど高校時代の友人とやりとりをしていて、
実家がいま鳴滝にあるというので、ふと思い出した。

日本浪曼派の泰斗として名を馳せた評論家の保田與重郎(1910-1981)に、
「天の時雨」という一文がある。
戦後公職追放を受けて故郷の奈良に引きこもったのち、
京都の北西、鳴滝の地に蟄居していた時の文章である。

>昭和四十五年十一月二十五日、私の聞いた正午過の放送は、
>三島由紀夫氏が、楯の會員をひきゐて帝?市ヶ谷の東部方面軍總監室を占拠した
>と傳へた。

この一行から始まる小文は、
読んでそのままに、三島自決を巡るさまざまの思いを、
彼から大きに心酔を受けた身として、
当日の自身の様子まで遡って記したものである。
中程に次のようなくだりがある。

>三島氏は壁につき當つたのではなく、好んで激突したのでもない。
>その人自身が璧だつた。璧は玉であって、玉は玉砕するゆゑに尊しといふ、
>東洋五千年の文明觀の?髄をその身にしてゐたと思はれる。
>石は割れるが、玉は砕ける。これが生命觀とか靈魂觀を象徴する。
(*最初の一字のみ「壁(かべ)」あとは「璧」であることにご注意ください。)


既視感を覚える方も多いだろう。
そう、3年前の2009年2月15日、
村上春樹が国際ブックフェアにてエルサレム賞を受賞したときのスピーチである。

>ここで非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。
>それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。
>紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、
>私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。

>「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、
>私は常に卵側に立つ」ということです。

なおスピーチは英語で行われた。該当箇所の原文は、

>Please do allow me to deliver a message, one very personal message.
>It is something that I always keep in mind while I am writing fiction.
>I have never gone so far as to write it on a piece of paper and
>paste it to the wall: rather, it is carved into the wall of my mind, and
>it goes something like this:

>"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it,
>I will always stand on the side of the egg."


この英文が村上が愛してやまないF. スコット・フィッツジェラルドの代表作、
『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby, 1925)を色々な面で思わせることは
ひとまず措くとして。
私は今日、「嘘を紡ぐプロ(a professional spinner of lies)」として、
この受賞会場にやってきた、と第一声を上げる村上春樹とは、
どれだけ「公」のポーズをとろうとも、「私」の領域に留まる存在なのだなあ、
と今、改めて思う次第である。
お恥ずかしいことながら、
私はリアルタイムにこのスピーチの実際の内容を知らなかった。
ただ「壁と卵」のくだりは、普段本を全く読まない僕のかかりつけの歯医者さん
―「千代田さん、専門はアメリカ文学だよね。トーマス・マンとか?」と言ってしまうような―
にさえ、「村上春樹ってやっぱりすごい人なのかねえ」と言わしめた伝播力をもって、
否応なしに当時、僕のぐるりを取り巻いた。

今の私に、三島と村上を、保田の評を介しつつ比較して論じる力は残念ながら、ない。
しかし現在の村上が有しているような「影響力」を、
単純に「公」というものと等号で結ぶのは、やはり間違ったことだろう。
同じく、三島のごとく公共の場で賑々しく自決をすれば、
それが即ち「公」に我が身を奉ずることとなる、ということでもないだろう。
しかし『ノルウェイの森』であれだけ登場人物を次から次へと自殺させながら、
作家自身は自殺しそうにもなく、自殺というものを肯定せずむしろ否定しているように
伺える一事をもってしても、
村上春樹は、それが壁であれ卵であれ、常に誰か―それもかなり多数の―
と共にいるように思われてならないのである。
うんと乱暴に言ってしまえば、
彼はあくまでも強者としてのマジョリティの一員である、ということだ。
比して三島はどうか。
かつて富岡多恵子が『男流文学論』で(鼎談者の上野千鶴子と小倉千加子を相手に)、
ある年(もちろん戦後である)の正月、
逗子かどこかの友人宅の酒宴で皆で軍歌を歌って騒いでいたら、
はるばる東京から三島が運転手つきの車でやって来て、
ひとりそのどんちゃん騒ぎの中で「高砂」だか「鶴亀」だかとにかくおめでたい謡をうたって、
そのまままた直ぐに東京へと車をとばして帰ってしまった、
そのときに、ああこの人は寂しい人だなあ、と思った、
というようなことを言っていたのを、思い出す。

>彼の少年から?年の時代にかけての、稚な顏を多分にのこした、
>纖細な年頃だけを知ってゐる私には、戰後のたくましい體躯を誇ってゐる彼の
>寫眞を見ると、何か憎らしくなつたやうな氣がした。
>その戰後は一度もあはなかつた。しかしそのことを後悔してゐない。

このように文を閉じようとする保田もまた、寂しい人であった。



8月29日

・・・・・
*保田のオリジナルの文章は全て旧字体で書かれていますが、
引用箇所の一部の漢字において変換不可のため、新字体としてある部分があります。


*村上のスピーチについては以下のサイトからテクストをとらせていただきました、
御礼申し上げます。
http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php?page=all
および
http://www.47news.jp/47topics/e/93880.php?page=all


*『グレート・ギャツビー』の冒頭は以下のとおりである。

In my younger and more vulnerable years
my father gave me some advice that I've been turning over in my mind ever since.
  "Whenever you feel like criticising anyone, " he told me, "just remember that all the people in this world haven't had the advantages you've had."
  He didn't say any more, but we've always been unusually communicative
in a reserved way, adn I understood that he meant a great deal more than that. In consequence, I'm inclined to reserve all judgements...

この「保留(reserve)」の傾向ゆえに、これから始まる小説世界で雲霞のごとく頻出する、
対象を明示しない「何か(something)」、結論に行く前にワンクッション置く
「rather(やや/むしろ)」などの語、そして
「結局は個人的なことだから( "In any case it was just personal")」と、
全てを個人の次元に収斂させてしまう態度等々、『グレート・ギャツビー』のみならず、
フィッツジェラルドを長年読んできた身には、それこそ既視感のある英語の文章である。



*拙い文章で恐縮ですが、私の2010年12月21日、2010年3月1日および2010年11月26日付のブログもご参照いただければ幸いです・・・
http://chiyodanatsuo.jugem.jp/?eid=129 (2010/12/21) 
http://chiyodanatsuo.jugem.jp/?eid=95 (2010/3/1)
http://chiyodanatsuo.jugem.jp/?eid=127 (2010/11/26)

August 23, 10:56 AM

 今さる所でシェリーを読んでいたら、
―ああ思い出す!美代子伯母が大伯父の十七回忌のとき、
当時解体修理中だった工業倶楽部が移っていた新丸ビルで、
「さる所はこちらでございましたかしら?(ございぁしたかしら、に近い)」と、
如何にもそれは東京山の手風な、
まさに「やさしく乾いた、口の中ですばやく廻転するようなその会話の、一定のスピード」
(三島由紀夫『美徳のよろめき』)でもって倶楽部の人に尋ねていた声を―
何度も読んできたはずの"To―" (1821)の第二連が、驚くほど腑に落ちた。

I can give not what men call love,
        But wilt thou accept not
The worship the heart lifts above
       And the Heavens reject not,
The desire of the moth for the star
       Of the night for the morrow,
The devotion to something afar
       From the sphere of our sorrow?

いわゆる「愛」は差し上げられない
しかし受けてはくださるまいか
この心が高く掲げる、天とて拒まぬ崇拝を
星を求める蛾のねがい
朝を求める夜のねがい
この悲しみの世界から、
遠く離れたものへの、この献身を。(拙訳)



「忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握って、
ただ陛下に差上げたい一心で握り飯を作って、御前に捧げることだと思います。
その結果、もし陛下が御空腹でなく、すげなくお返しになったり、
あるいは、『こんな不味いものを喰えるか』と仰言って、
こちらの顔へ握り飯をぶつけられるようなことがあった場合も、
顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。
又もし、陛下が御空腹であって、よろこんでその握り飯を召し上がっても、
直ちに退って、ありがたく腹を切らねばなりません。
何故なら、草莽(そうもう)の手を以て直に握った飯を、
大御食(おおみけ)として奉った罪は万死に値するからです。
では、握り飯を作って献上せずに、
そのまま自分の手もとに置いたらどうなりましょうか。
飯はやがて腐るに決っています。これも忠義ではありましょうが、
私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をもかえりみず、
その一心に握った握り飯を献上することであります」
(三島由紀夫『奔馬―豊饒の海・第二巻―』)



ですから、君は敢えてファンという立場を遂行するのです。
恋愛は戦争です。力のおよそ均等な国同士が領地を獲りあうからこそ
成立いたします。相手を陥落させる可能性が一縷でもなければ
戦争とは認められません。相手を倒す力が明らかになければ、
単なる反乱。ファンであることに甘んじるのは反乱の力しかない場合です。
しかし「貴方のファンです」という言葉は、力の法則と戦争の手続きを無視して
相手と同等に立てるジョーカーとなります。
ファンだという告白は形勢を一瞬にして逆転させるのです。
しかし白旗を掲げた訳ですから、貴方は一切の権利を自ら放棄せねばなりません。
これは級友との恋愛に際しても同様。
どうしても振り向いてくれない相手を諦めきれないのなら、
君はその人のファンになればよいのです。
これが戦争放棄という恋愛の禁じ手です。
(嶽本野ばら「ファンの心―基本的恋愛権の尊重と戦争放棄」)



告白からのち三たびの遭遇、
今度またCちゃんに出くわしたら、もう、どうしようかと思っていた。
土下座でもする?
恋と忠義は捧げたもの勝ち、
捧げられたほうはただ受けるのみ、ほかに選択の余地はない。
ただしそれはあくまでも「禁じ手」なのである。


8月11日
・・・・・・・
・禁じ手
?相撲・囲碁・将棋などで、使用を禁じられているわざ、または手。
用いると反則負けとなる。きんて。
?一般に、使ってはいけない手段。(『広辞苑』第五版)

・パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)
英国ロマン主義の詩人。代表作に『解き放たれたプロメテウス』「オジマンディアス」など。
われわれがよく口にする「冬来たりなば 春遠からじ」という文句は、
彼の「西風に寄せる歌(Ode to the West Wind)」(1819)の最終行、
"If Winter comes, can Spring be far behind? "の邦訳である。

July 23, 09:49 AM

 先週の水曜日、
大学の用事が午前中で終わったので鹿児島市中に立つ城山頂上のホテルで
フランス料理の遅いお昼を食べていたら、
『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲が流れてきた。
母の好きな曲である。私も大好きだ。
テリーヌだのムースだの手のかかった柔らかいものを舌にのせながら、
磨き抜かれた一面のガラス越しに眼前の桜島と錦江湾を眺めていたら、
海が七色に変化し始めた。
みどり、青、むらさき、ピンク、濃紺、
長年この湾を眺めてきているが、
名前のとおり錦のごとくに見えたのは初めてだった。

いつもは節約してホテルの無料バスで下山するのだけれども、
そのまま車寄せに直行して、桜島桟橋までタクシーに走ってもらった。
対岸へ、桜島までフェリーでたった15分である。
甲板に出て、
先ほどのマスカーニの旋律と荒井由実の「瞳を閉じて」を交互にうたう。

>風がやんだら 沖まで船を出そう
>手紙を入れた ガラスびんをもって

>遠いところへ行った友達に
>潮騒の音がもう一度届くように
>今 海に流そう

降り立って午後の四時半、
最終の展望台巡回バスが出ると教えてもらって乗り込む。
一番標高の高い
(といっても標高373m。桜島の標高は1117mであるが、
いつ爆発してもおかしくない活火山、危険なのでここより上は立ち入り禁止なのである。)
湯之平展望所から火口を背にしてもう一度ぐるりと見渡すと、
やはり虹色ににじむ海が、しかし今度は、
鹿児島市街地の広がる薩摩半島、その奥にさらに入り組んだ姶良(あいら)方面の入り江、
そして桜島が根元で引っ付いている格好の大隅半島に沿って東シナ海へと、
融通無碍にのびのびとしたかたちを見せている。
私が住んでいる家からも同じ錦江湾が臨めるが、
それは一直線に伸びた水平線(実はその向こうに大隅半島がある)であるので、
湾という醍醐味を見た思いだった。
一時間で三か所の展望所を回ってくれる非常にスマートなコースで、
乗客は私一人だった。

なぜ平日の昼日中からフランス料理の遅お昼などと優雅なことをやっておったかというと、
前日の6時間ぶっ通しの教授会でいろいろまた発言して疲れていたから。
赴任前は師匠たち友人たちから、
とりあえず着任して1-2年は目立たないようにしていろ、と散々助言を受けて、
私も地味なレジメンタルや水玉のネクタイを新たに買い揃えたりもしたのだが
(自前で持っているのは皆、水色の地に金のエンジェルとピンクの
カーネーションが飛んでいたり、レジメンタルはレジメンタルでも
紅白のチューリップで斜線が織り出してあったりしたから)、
結局その禁を赴任2ケ「月」で破ってしまった。
新任のペーペーとしては、このところの数回の教授会で、
三年分くらい喋ったように思う。

僕はどうしても頭より先に口が動いてしまう性でいけないのだが、
ベテランの先生方のやりとりを聞いていると、
たとえ立場を異にされる同士、議論が熱を帯びてきても、
最後に必ず糊しろを残しておられて、
つまり最後の最後まで追いつめて剣を突き通すようなことはなさらないので、
つくづく感じ入る。
「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい」
という、と或る詩の一節がしきりと思い出されるのである。
大昔、「あなたはもっと謙虚にならないと、幸せになれないよ」と私に言ったのは、
生意気にも愚弟である。


>二人が睦まじくいるためには

愚かでいるほうがいい

立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは

長持ちしないことだと

気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

二人のうちどちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

そしてなぜ胸が熱くなるのか

黙っていてもふたりには

わかるのであってほしい

(吉野弘「祝婚歌」)



幸せになりたいと思う。
だって僕はこの南の街に、この春お嫁に来たんだもの。


7月23日

June 28, 08:46 AM

 明後日の学会は、アメリカ文学者としてのみならず、
フェミニズム、ジェンダー・セクシュアリティ研究、クイア・スタディーズの領域に、
次々と偉業を達成されつつ昨年暮れに急逝された、
竹村和子先生の仕事の「検証と継承」についてのシンポジウムがまず開かれる。
その後に自分の発表を控えているのでフロアに出られないかもしれず、
これだけはここに記しておきたい。
シンポジウムのパネリストの一人、評論家の小谷真理氏は、
プログラムに以下のように記している。

・・・・・・・
当事者とは、誰だったのか?
小谷真理(評論家)

>クィア・セオリーが勃興した90年代半ば、
たとえクィア・セオリーがフェミニズム理論と深い関係性を結んでいたとしても、
フェミニストで学者だったら、「あなたは、誰か?」「どの立場でモノを言っているのか?」
という執拗な問いに直面せざるを得なかった。ここで思い出されるのは、
ゲイでもないのにクィア・セオリーを訳し論じようとする竹村和子さんに対し、
「当事者でもないあなたに、語る権利はあるのか?」と
批判的姿勢を崩さなかったゲイの日本文学者キース・ヴィンセントの真摯な問いかけである。
それは、なんでも軽々と理解し、学習し、そして理論化し、
自らの業績表一覧の項目に記して、明らかに権威主義的男社会に
アピールするべく邁進しているように見える女学者先生に対し、
「単なるお勉強少女の延長じゃないの?」との目を向けがちな女性運動家的批判と、
鋭く共振する問題提起だった。
>そう。草の根のフェミニズムと、アカデミズム系フェミニズムの間には、
むかしもいまも、あまりに暗い深淵が存在する。
本来、フェミニズムにおける運動と理論は、社会変革をおしすすめる女性たちにとっては、
いわば車の両輪であり、本来どちらも欠けてはならないはずだが、それとはうらはらに、
女性たちの絆を分断し、対立させ、これを押しつぶそうとする権力的階層制度は、
近代以降に生きている者ならだれでもおなじみの自由放任経済特有の心理、
いわゆる競争原理に伴う憧憬と嫉妬の心理を煽動しつつ、
アクティヴストとアカデミシャンの間にも浸透していたのである。
>当事者性への問いはナイーヴであり、回答者の(特権的)階級を暴露するが故に、
応答責任を果たすこと自体を厄介で面倒くさい仕事にしてしまう。
面倒を回避しようと、問い自体を不可視の領域に押しやるかのように沈黙したり、
目をそらしたり、とりあえず目先の問題から片付けようと後回しにする向きも少なくない。
しかし、不思議な事に、竹村さんはそうした批判的状況を実に誠実に受け止め、
その場から逃げ出さず、自らをたえず戒めながら、
長いスパンで「だれがそれを語るのか」という当事者の問題と取り組んできた
フェミニストのひとりだった。
まさにこの地点から自身の理論を深化させていった彼女のテクストを、
フェミニスト批評の文脈で検証したい。
http://www.tokyo-als.org/04_schedule.html (アクセス年月日:2012/6/28)
・・・・・・
私がこのブログ冒頭に記した三分野というのは、
学問領域として確立した時系列に沿っている。
乱暴を承知でまとめてしまう。

まずは女も男と同等の権利をというところから始まって、
じゃそもそも男って女って何よ?そこから根本的に考え直そうよという疑問を
フェミニズム(前者がリベラル・フェミニズム、後者がラディカル・フェミニズム)が提起したのち、
たとえば「じゃあ、私は女で男を愛する異性愛者、あなたは男で男を愛する同性愛者、
いろいろあっていいんじゃない?おかしくないよ、性的マイノリティも自信もちなよ!」
とコマが進められたジェンダー・セクシュアリティ研究、そしてその道筋の上に、
「queer(変態)」という、それまで自らに向けられていた差別語を逆ねじのようにして、
いわゆる “性的マイノリティ”の側から立ち上がってきたのが、クイア・スタディーズである。

クイア・スタディーズの根本理念とは何か。
それは「私もクイア(変態)、あなたもクイア、みんなクイア」ということである。
“性的マイノリティ”なんて「強制的異性愛(compulsory heterosexuality):
この世に生まれ落ちた瞬間から、もとい母親の胎内にいるときから、
異性愛者に非ずは人に非ずと絶え間なくかけ続けられる圧制(プレッシャー)のこと」
の産物に過ぎないんだから。
だからクイア・スタディーズという領域が認識、確立されて早や20年近く経とうかという、
日本の少なくともアカデミズム(学問の世界)に生きる人々の間で、
「あなたは誰?」という問いは、実は成立するはずはないのである。
クイア・スタディーズにおいては「みんなが当事者」なのだから。

もちろん小谷氏が記しているもう一つの「[あなたは]どの立場でモノを言っているのか?」
という問いは有効だし機能し続けるべきだ。
「みんなクイア!」でしゃんしゃん御手打ちハイ解散、では、
議論も思考も深まらないし、フェミニズム、
ジェンダー・セクシュアリティ研究という道のりを経て、
せっかくここまでこぎつけた長い苦労が水の泡になってしまう。
しかし根本は「皆が当事者」ということだ。それを忘れてはならない。
こういうことを言うと必ず、
「原理主義者(ファンダメンタリスト:fundamentalist)」と呼ばれてしまうが、結構だ。
近年は“テロを起こすイスラム原理主義者”等々のイメージもあって、
原理主義者といえば悪い言葉のようだが、そもそも原理なくして学問は成り立たない。
大学教育にしたって理系文系問わず、
「基礎科目(foundation course)」の上に、
演習なり何なりのadvanced courseが開講されて、
初めてある特定の学問領域の体系化がなされ、
その大学ではその領域を学べる、専攻できる、ということになるのだから。
逆に言えば、
もし原理とその主張が否定されるのならば、
それはもともと「学問としては」成立しえないものだったということだ。

言うまでもないことですが、
小谷さんの文章を批判しているわけでは毛頭ありません。
アクティヴィズムとアカデミズムの乖離、当事者性の問題の扱い方などは、
僕自身がずっと悩んでいるテーマです。
シンポジウムに参加なさる方、
ぜひ大いに楽しんでいらしてくださいませ。

かしこ

千代田夏夫 6月28日

June 22, 01:34 PM

 長方形の食卓の、
私の席の真向かいに出窓が張り出して、
白い桟で区切られたガラスの向こう側に、スモモの樹が見える。
視界の外にある幹から伸び来た葉むらのおちこちに、
緑や紫のスモモの実が実っている。
目を左手のテラスに転じれば、今日は御三時からご出勤のくまこ
(この家のガーディアン・キャットです)が、
両手に顎を載せて、尻尾を丸めて眠っている。
スモモの実がゆっくりと色づくように、くまことの距離も縮まってゆくようだ。

今日は大学図書館の立派な吹き抜けのロビーで、
美術科彫塑専攻の学生さんたちの作品展を見てきた。
大作が目立つ中で、ちょうど今くまこがしているようなポーズの、
文鎮ほどの大きさの猫を鋳だした作品があったので、
ためつすがめつ、もし買えるような値段ならば出品者の学生さんに一度相談してみようと、
あらためて手許の案内を見たら、
もう某大学の先生をしておられる、一家を成した方の作品なのであった。

十年近く前パリの左岸をふらふら歩いていたら、
猫の彫塑ばかりを集めた小さな展覧会にゆきあったことがある。
僕はまず、布袋さまのようにでーんと大きなお腹を突き出して座っている、
笑い猫の茶色い銅像に惹かれたのだが、
いかんせん日本に抱えて持って帰るには大きすぎ、重すぎる。
残念ね〜なんて言いながら、ほとんどが、どん!でん!どでん!!という感じの
猫ばかりが並んでいる中、一匹だけ、
えらく華奢な、針金のように折れそうな小ぶりのものがあったので、
あ、これならいいじゃないの、とつんつん触りながら値札を見たら、
何ユーロだったかは忘れたが、とにかく当時のレートで、1200万円相当したのである。
おもわず「うげっ」と低く呻いたら、画廊の主人が苦笑しながら、
「セ・ジャコメティ(C'est Giacometti、ジャコメッティですから)」と静かに言ったのだった。
6月だったか7月か、あれもやはり夏のことだった。

夏至を背にして六月の日は長い。
樹の葉の群れ群れを風が渡りぬける音を聞きながら、キーを打っている。
くまこはまだ眠っている。

6月22日













June 08, 02:20 AM

 六月や峰に雲置く嵐山   芭蕉

この時期になれば日本中で口ずさまれる句だろう。
週末所用のため帰洛、
明日の朝一番で鹿児島に戻る汽車の切符をJR嵯峨嵐山駅で求めたのち、
弟の車を降りてひとり、渡月橋まで歩いて標高381mの嵐山に臨む。
車折神社頓宮に拝したのち、京都五山の第一天竜寺、野々宮神社、落柿舎、
嵯峨釈迦堂を経て、旧嵯峨御所大覚寺まで、日没までぎりぎりの猶予を得て歩く。
30分ほど市バスを待って帰宅。
太陽が山の向こうに落ちてなお明るさは残るが、
本当の夜となる直前に、ひととき、
さあーっと砂金を撒いたような薄い輝きに一面が包まれる時間がある。
今日はとりわけ、唐の洞庭湖を模したといわれる大沢池(おおさわのいけ)を擁し、
大陸風の浄土感を醸す大覚寺の門前でその光を浴びたから、
浮世から少し足の浮いた感覚はひときわであった。


六月を綺麗な風の吹くことよ  子規

筍ごはん、筍と鶏の焚き合わせ、生ゆばの昼食ののち、
植物園にゆくという父を乗せて、弟の車で家を出た。
府立植物園は京都市の北端、北山通に面しているからかなりの大廻りで
父を降ろし、二人でTの一条本店にゆく。
宇治金時、宇治氷(こちらは餡ヌキ。弟は餡がキライ。)に、
それぞれ白玉三ケと練乳をつけてもらう。
岡崎界隈を通って八坂の石段下へ、知恩院脇のいつものパーキングに車を停める。
八坂神社参拝、祇園下河原、高台寺道、二年坂、参寧坂、と、これは道なりの、
先月と全く同じコースである。
清水寺門前の清水焼屋と扇子屋が立ち並ぶ辺りでは
流石に休日の晴れた観光地の人混みに、弟とはぐれる。
シャンソンの「群集」を小さく歌う。左に右に軒の品々を楽しみながら、登る。
紅鮮やかな仁王門の前で合流。
本堂舞台からの眺めは常の如し、
今日は、いつもは奥の院に向かう途中遥拝で済ませてしまう隣接の地主神社に、
私だけ参詣。先月上がった謡曲「熊野」にも「地主権現」として現れるが、
何といっても縁結びの神様として名高い。
恋みくじ200円末吉也。境内の棚に結びつけて石段を降りる。
帰路は五条通へ出る茶碗坂を下って、東大路を北上、車に戻る。
3分のタッチの差で、駐車料金が120分のカウントに入ったところであった。
四条をひたすら西に直進という王道をとって、私だけ嵐山嵯峨野へと向かったのである。



六月の氷菓一盞の別れかな      草田男


初夏、この季節になると祖母が決まってこの句を葉書に書いて送ってきた。
夏休みを前に青年達が、かき氷を一杯すすって「じゃあな」とそれぞれの郷里に別れてゆく、
祖母の解釈はいつもこのようであった。
南の果ての旧制第七高等学校教授の長女であった祖母にとって、
それはいつまでも忘れることのない、夏のはじまりを告げる光景であったのだろう。


6月3日

・・・・・・・
・旧制第七高等学校 造士館
1901年鹿児島市に設立された官立旧制高等学校。
全国に一高から八高まであった所謂ナンバースクールのひとつ。
1949年、鹿児島農専・師範学校等とともに新制鹿児島大学を成す。

・ちなみに氷菓とは通常はアイスクリーム、アイスキャンデー、シャーベットなどを指す。


May 06, 11:22 AM

午後五時の便で帰鹿、夕食をとったのち、
パンッパンッと部屋の電灯を消してまわりながらふと庭を見て、
思わず声を上げた。
こぶし二つ分はゆうにある、勲章のようなバラの花が、
紅白それぞれ十個以上乱れ咲いて、
折からの満月に照らされてゐるではないか。
赤薔薇白薔薇ランカスターとヨークのばら戦争というのがあったけれど、
流石にこれは戦いには非ず、美の競い合い誇り合いというところであろうが、
この数年私は「ゴシック」をテーマに論文を書いていることでもあり、
凄絶な美しさに、とりあえずここに記録をとった次第である。

大阪の伊丹空港ではボート部の学生さん2人に声をかけられ
―琵琶湖で大会があった由。
ボート部(正式には漕艇部)には四月早々、新入生と間違われて勧誘されましたの―
空港からのリムジンバスを降りて入ったスーパーマーケットでは、
やはり私のクラスの学生さんがレジを打ってくれた。
幸い中身は豆腐と豆苗とアスパラガス2束だったので、
「ヘルシーですねえ」と褒めてもらえたが、
ジャンクなものが入っていなくて本当によかった・・・
母に持たされた筍ご飯と出し巻き玉子、エビ焼売(出来合い)にアスパラガスを茹でて夕食。
伊丹空港へ向かうモノレール沿いには、
アカシア(正確にはニセアカシアまたは和名ハリエンジュ)の白い花房が
綺麗でした。
早く着いたので空港内のHのキャッフェヱー(ただのイートインコーナーです)で、
特製アイスクリーム、名物の豚まん、551ラーメンを食べる。
膏が少々重たく感じた豚まん以外はとても美味でした。

ところで私が1992年〜1999年に創作・録音した曲を集めました「Old History」、
引き続きご愛聴のほど、よろしくお願いいたします。
http://flavors.me/chiyoda_natsuo#529/soundcloud
↑この「Old History」収録の「かなしみ」(5曲め)は、
1995年初頭のテイクだったと思います。
そこから16年経った2011年4月、
↓このようになったわけです。
http://www.youtube.com/watch?v=BcsgsuqWu54
楽しみ方のひとつのご提案として・・・僭越なことですが。

おやすみなさい。

5月6日

May 04, 01:05 AM

 菜の花や淀も桂も忘れ水   言水

淀川も桂川も滔滔たる大河であるが、
この菜の花の大海の中にあっては、
途切れ途切れのせせらぎのようなものだというわけ。
今回帰省してまことに意外だったのは、
桂川も鴨川も、川沿いに菜の花の盛りであったことである。
鹿児島の庭では、藤の花房をなす小花のひとつひとつが池に落ちて水面を集まって漂い、
花筏(はないかだ)というのは桜だけのことではないのだなあと
気付かされたのだったが、
京都ではまだ藤は咲かぬ。つつじもこれからである。

きのうおとといと二日間、謡の集中稽古。
なんとか「熊野(ゆや)」を上げていただく。
今日はIでチョコレートパフェを食したのち
(何度も言うがここのチョコレートパフェは日本一である、金曜からの帰洛でもう3回目である)
四条通をずっと東へ、途中先斗町に寄りつつ祇園石段下まで、
八坂神社参拝、高台寺道、二年坂、参寧坂を登り切って、
清水寺まで歩く。
昨春からなぜか、
京都に戻ると一度は清水の舞台まで出かけてゆく。
いつもそれは日暮れに近い。
自分の住まいのある洛西のほうを見やると、
竹林をそこだけ淡い緑の裾綿のようにしてはべらせたゆるやかな山並みに、
その上の雲から、幾条かの光がまっすぐと下りてきていてまことに聖、
粛然とした気持ちになる。
その心の緊張に、幾星霜参拝の人々の掌を受けてきた、
舞台の欄干の柔らかな木肌が、そっと沿うてくれる。
そして下に降りて緑陰なすなか音羽の滝の前を通るとき、
ここを舞台にした、戸板康二の「滝に誘う女」という、
もっさりした短編のミステリのことを、いつも思い出す。

四條五條乃橋の上 四條五條の橋乃上

「熊野」の文句通りに鴨川にかかる橋々を往ったり来たりしていれば、
互いに相見知らぬ仲ながらも「とりましょうか」とシャッターを押し合う
観光客らの姿も微笑ましい(私は何様だ)。

四條五條乃橋の上 四條五條の橋乃上
老若男女貴賎都鄙

稽古で地の部分まで一人で謡いとおすならば、
主人公の熊野、その侍女の朝顔、熊野の主君たる平宗盛、その家臣とあわせて、
老若男女5種類を演じ分けるわけである。
そういえばシューベルトの「魔王」も四通りくらい声を変えるけれども、
昨日の稽古では宗盛の部分、「位をもって」というご注意があった。
家来と同じように謡ったのでは駄目なのである。
いわゆる「位取り」など、日本舞踊で昔、
武原はん、藤間の家元、吾妻徳穂の御三方が、
それぞれ「松」「竹」「梅」を舞っているのをTVで観たときに
言葉として聞いたことがあった位で、
わが身に降りかかってくる日が来ようとはついぞ思っていなかった。
新鮮なお叱りでありました。

高島屋内のTで黒蜜氷白玉アイス乗せ練乳がけを食したのち、
Tの四条支店で味噌餡・御膳餡(こしあんのことです)の柏餅、
粽(ちまき)二種(水仙(葛粉)、羊羹)、こなしの「香ばら(においばら)」を求めて帰宅。
昨日はF総本舗の柏餅―ここの柏餅が京都で一番である―、
今日は父が渡月橋たもとのKで餡なし桜餅(弟はあんこがキライ)、
それにかつてご近所であったK夫人が私の鹿児島行きのお祝いにとて、
これはもう全国的に有名になってしまって入手困難な、
出町Fの豆大福と粽を私の留守中に届けてくださっていた。
お大尽である。
まあよろし、あさっては子どもの日だもの。
父が今春から東京のW大学の教壇に立っているので、
ひさびさに一同の顔が揃った京都の宅である。
と、ここまで記してきて気付いたが、
「熊野」も外枠は、病み伏している故郷の老母に会いたいと請願しながらも
花見に連れ回され、やっと許されて喜び勇んで東下りするという、
熊野の帰省話であった。


5月3日

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