思い返してみても小さいころに親友と呼べるような仲の良いお友達がいたかどうかあまりよく覚えていない。ということはおそらくいなかったのだと思う。そういうことを言うと、かわいそうな人だなあと思われるのか何なのか、「そんなことないよ!」と励まされるあるいは少し説教すらされるというのが定石です。でも本人はあまり何とも思っていないので、ぽかーんとした顔をしてしまう。それがまた人をいらっとさせるようです。
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田舎から都会へ出てきた人のほとんどには「私はみんなとは違う特別な存在なんだ」という意識があるのではないかと思う。それはごく自然で当たり前のことであって、べつに恥ずかしいことでもなんでもない。
私は3歳くらいまで静岡県は藤枝市で過ごし、幼稚園に上がるとともに母親の実家のある高知県という日本の中でもかなり田舎と言える所に渡り、18歳までそこで育った。高知は雨の日と晴れの日が多く、曇りが少ない。私は市街地から自転車で15分ほどの、商業港のそばに住んでいた。お世辞にも治安の良い場所とは言い難く、そして街から近いということもあって、さまざまな層の人々がごちゃっと住んでいる地域だった。
同じ学年に100人近くの子供がいたけれど、大学に通っているのはおそらく10人くらいのものだ。我が家はきっとその中でもそれなりに裕福だったように思う。6歳まで籠の中に閉じ込められるようにして育ってきたとんでもなく世間知らずな私は、かなりもがいたけれど、結局6年かけてもあまりみんなになじむことはできなかった。
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「お友達は選びなさい」と母親が繰り返し言っていた。
私が大学受験のために勉強に明け暮れていた18歳の時分に母親になった子がいる。頭の回転がとんでもなく速くて、最高に面白かったあの子は、私が毎日毎日酒を飲んでばかりいた大学2年の頃、自殺をした。唯一幼稚園から一緒だった幼馴染のような男の子は、引きこもりになって今はもう私と話もしてくれない。高校へ進学した子たちは半分弱が中退、卒業をした子たちもほとんどが就職。漁業と農業の盛んな地域なので男の子はある程度働き口もあろう、しかし女の子は大体が水商売か結婚ということになるようだ。バラックのような家で何十匹もの猫を飼っていたあの子は今は何をしているのだろうか。中学でヤクザのまねごとのようなことをしていたあの子はやくざになったのだろうか。
こうやってつらつらと書きならべてみても、あんまり現実感がない。あのとき一緒に教室にいたあの子たちの多くが置かれている状況を想像もうまくできないというのはじつに不思議な話だ。
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密封された袋の中で、ゆっくりと腐っていくような感覚が田舎にはある。西原理恵子はそういうものをもうそのまま切り取っていて、それが漫画ならまだしも、映像として立ち上がってくるとそのあまりの忠実さに目を背けたくなる。彼女は高知県の出身なので、私の生きてきた場所を描いているわけで、まったく大げさでなくそのままで悲惨で苦しい故郷のにおいが嫌でも蘇ってくる。家庭環境が似ているということも大きな要因ではあると思うけれど、それを差し引いても自分の幼少期の映像を観ているような感覚に陥った。親にも友達にも誰にも打ち明けられなかったどう表現して良いのか分からないけれどどんどん膨れ上がっていく気持ち。彼女が郷里を描いた作品に共通するそんな想いが、あまりにも自分のそれと重なるので、観ていてうまく息ができなくなってくる。
しかし、これが私の育った土地なのだ。みっともなくて恥ずかしくて下品でバカバカしい所。もう二度とそこに住まいたいとは思えないほど大っ嫌いだけれど、時々どうしても今すぐ何もかもやめて帰りたくなる所。好きすぎて嫌い。嫌いすぎてむしろ好き。そういうのが私にとっての故郷だ。
私の故郷の暮らしは、東京で生まれ育った人、外国での暮らしが長かった人、高知県とはまたちがう田舎で育ち東京へ上ってきた人、東京近郊の田舎で暮らしてきた人、色々な暮らしをしてきた人がいるだろうけれど、それぞれの目にはどんな風に映るのだろう。まったく違う背景を持って生きている人間が出会ってくっついたり離れたりしているというのは、当たり前のことだけれどとんでもなく不思議だな。
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個人的な話は抜きにして、女の子ってとってもバカで可愛くっていとおしい生き物だと思える作品なのではないでしょうか。時代の設定も相まって画面の色合いもとてもきれいで、内容のそれなりに救いのないのと裏腹に目を楽しませてくれました。女優さんもみんなかわいい人ばかりが出演されていて、私はとっても気に入りました。欲を言えばもっときちんと土佐弁を話してほしかったけれど、まあそこは仕方がないね。
パッケージの内容解説や、ストーリー解説は「女の子版《スタンド・バイ・ミー!》」なんてうたっているけれど、私はそうは思いません。もっとじめっとした救いのない話。でも、青春ものがたりの実際とは、そういう湿度の高いものなのではないでしょうか。そんな気がします。
女の子ものがたり 監督:森岡利行
うちの祖父は厳しい人だった。「人をうらやましがってはいけない」「負けることに慣れてはいけない」と、このふたつをまだちいさかった私に文字通り耳にタコができるほど何度も話していた。
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幼稚園にて、私はとにかく体育というものが苦手で仕方がなかった。運動をすることがだいきらいだったし、そもそも私とあの子ではまったくもって体格もちがうのに、同じ運動をさせられるということがとにかく納得できなかった。極端に体の弱かった私は「どうしてあなただけ楽するの?みんなしんどい思いをしているのだから、あなたもがんばりなさい。」と言われることがどうしても気に入らなかった。
小学校では給食当番や掃除当番のやり方が気に入らなかった。体の大きい人や力の強い人が重いものを持つべきだと思っていたので、ぜったいに当番通りに仕事をしなかった。通知表には「ちさちゃんは自分のことをお姫様だと思っています。お友達は召使いではありません。」と書かれていて、私はこれをけっこう気に入っていたのだけれど、なぜか母親にはゲンコツをくらった。
先生や母親に怒られるたびに、なんでみんなががんばっているからって、私もがんばらなきゃいけないの?そもそも私はがんばっているのに勝手にがんばってないみたいに決めつけないでよ!といつもぶすっとしていた。(ちなみにこれに関しては今でも納得がいかない。)
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私は生まれつき握力が平均とくらべると異常に少ないなど、それからいろいろと体に不具合の多いできそこないな子供だったのだけれど、わりに手先の器用なところがあったので、母は3歳から私にピアノを習わせた。祖母は物心ついたころより裁縫と料理を教えてくれた。本を読むと家族がみんな喜んでくれたので、ほめられたい一心で本を読んでいるうちに、いつの間にか読むことは日常になっていた。ご飯を食べるのと、寝るのとあまりかわらないように本を読んでいた。これらの要素のおかげで、どこか足りないところのあった私も、いまはなんとなく人並みに日常生活を送れている。
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母や祖母は都合のいい時だけ「うちはうち、よそはよそ」と言ったが、祖父はちがった。運動ができなくても、友達にいじめられてもちっとも気にしなかった。「ちさは賢い子どもだから」といつも私の自尊心を守ってくれた。それはいつでも一貫していたので、祖父の言うことは特別に信用できた。
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私が母や祖母に怒られたとき、祖父はきまって私を外に連れ出してくれた。建築士だった祖父はそういうとき、たいてい自分の仕事場に私を連れて行き、私の見ているところで図面を引いてくれた。祖父の書く字は見たこともないような不思議な形をしていて、お世辞にもきれいとは言えなかったけれど、私はそれが大好きだった。埃っぽい事務所の冷たい椅子に座って、いつも祖父のくれるまったくおいしくない薄荷の飴ちゃんを口の中で持て余しながら、足をぶらぶらさせて図面を引く祖父を見ていた。祖父はあまり話すほうではない人だったので、黙って仕事をしていたのだけれど、何も言わない祖父がいちばん私をわかってくれているように幼いながら感じていた。
煙草くさくて、埃っぽい祖父の仕事場に時折やってくるおじさんたちは、やっぱりみんな煙草くさくて、なんだかその匂いに妙に安心したことを覚えている。夜になると背広に染みついた煙草の匂いが恋しくて、祖父が家に帰ってくるなり玄関に飛んで行って、ぎゅーっとしてもらうのが私の日課だった。
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私は未だに逆上がりも二重とびもできないし、きっと給食も残してしまうだろう。白いご飯は相変わらずぜんぶ食べられない。子犬といえども生き物に触るのも苦手だし、まともに人との距離の取り方も上手でない。日本から一歩も出たことがないし、もちろん英語もろくに話せない。
でも、こんな何もできない私だからこそ考え付くこともあると思っている。物を考えるということだけはすこし自信がある。
祖父が死んでからちょうど15年になる。祖父が死んでからの我が家はまあとんでもないことがいくつも起こって、今でも死んだほうがマシだと思えるようなことが毎日毎日ふりかかってきた。いつだってみんな祖父がいてくれたら、と思いながら生きてきた。
それでもまあ懲りずに人に怒られることの多い今の私がいる。もしも私を上から見ているならば、げんこつどころか折檻されてもおかしくないくらい、まったくおしとやかでない女の子におかげさまで育ってしまったので、祖父は私に失望しているかもしれない。
まあ、でもおじいちゃんはいつでも私の味方でいてくれたので、私がこんな放蕩娘になっていてもそれでもきっと可愛いに違いないとたかをくくっている。私も、これからもずっとおじいちゃんのことが大好きで居続けると思う。
「一生こうやって遊んでくらせたらいいのにね」なんていうのはきっと叶わないんだけれど、今日の夜にも私はきっとなんでもないようにいつもの暮らしに戻っていくんだけれど、この場所にはそんなことを夢ともうつつともつかない様子で言えてしまう引力がある。
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自分と違う人間と一緒にいることが楽しいと思えるようになったのはじつは最近のことだ。仲良くなればなるほど話すことが面倒くさくなってしまうし、果てにはこう、言葉にできないような気持ちを「いま」「この」「瞬間に」私が感じるのと同じ速度で理解してほしいなどというエスパーでもない限りは到底できやしないようなことまで望んでしまうのがよくない。
私の母親は、私と彼女がそれぞれ違う人間であるということを理解するまでに20年ほどの時間を費やしたものだが、その血が私にもほんのり流れているのかもしれないなぁと考えたりもする。
しかし最近では、考え方のまったく異なる人たちと一緒にいる時間が長く、これで案外気の小さい私は気を遣いすぎる。かと思えば思わぬはずみで心配になるほど相手の領域に踏み込みすぎたりしてしまうことがあって、私はつくづく人づきあいの得意でない人間であるのを改めて実感しています。
けれど人と一緒にいなければ経験できないようなことに山ほど触れているし、自分の居場所のようなものもひとつ増えたような気がしていて、いやらしく損得勘定をしても、どうしたって得になっているように思える。
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むかしっから自意識が過剰だった。「自意識過剰」と家族から叱られる幼稚園児というのも私くらいなんじゃないかと思う。もちろん当時は「ジイシキ」も「カジョウ」も意味が分かっていなかったけれど、母の発するそれに「みっともない」とか「恥ずかしい」みたいな要素が含まれていることは伝わってきた。
こじらせた自意識による私のおかしな(と家族から非難される)言動は母や祖母や妹弟までも困らせてきているようだけど、彼らももう私に対してはある程度仕方がないものだと諦めてくれているのでこのごろはあまり窮屈な思いをしなくても済む。
私がぼんやり想像していた21歳とはもう少し大人っぽくて、こんなふうに自分のことについてぐるぐる考えているような甘えた子どもがなって許されるようなものではなかった。でもやっぱり私は8歳くらいからよくもまあ飽きもせずに、自分と世の中の接点みたいな小さな点のことばかりを考えている。私はきっと死ぬ直前まで、ごく小さなことを大袈裟に考え続けるのだと思う。
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「本が好きだ」と明言することが怖かった。他人に「~って読んだことある?」と知らない作家や作品の名前を挙げられた時に、本が好きだなんて言っておきながら「ない」と応えると相手に失望されてしまうのではないか、そんなことを不安に思うくらいならはじめから何も知らないふうにしていたほうが随分気が楽だと、そう思うようになっていた。なんという思い上がりでしょうか、この世の中にいったいいくつの本があると思っているのでしょうか。
私の好きな本を、たとえば私の大好きなかわいいあの子が読んだらどんな風に思うだろう。私と同じところにどきっとするだろうか、それとも、私が通りすぎてしまった何かを見つけるのだろうか。そんなことを想像するのもまた楽しい。今読んでいる本は、いまは京都にいるあの子に送ってみるのもいいかもしれない。筆不精な私の代わりに、私があの子を恋しいと思っていることをこの本がきっと伝えてくれるはずだ。
綿矢りさと金原ひとみは、その名前を並んで見ることの多い作家。その理由は言わずもがなだけれど、石原慎太郎が「あまりにも人生における視野が狭い」とふたりの作品を評したそれは実はかなり的を射た言葉なのではないかと思っていて、私には生臭く感じられたことをよく覚えている。
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「痛い」という感覚はずるいと思う。わかりやすい。殴られれば痛いし、指を切ればこれも痛い。でも、意外とそうでもない。耳にいくつ穴を開けても、その穴を大きくしても、いつのまにか痛くはなくなっているもので、痛いときにはもう少し大切にできたそれらが恐ろしく恥ずかしく思えてくる。不思議なものである。でも、あたりまえだけれど一度開けた穴は元には戻らない。ふとした瞬間に触ってみると少しだけ悲しくなるので、最近ではもう使わない耳の穴を「かなしいスイッチ」だと思うことにしている。もう穴を開けなくても、生きているということが分からなくなったりしない。
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人のためになるかどうか、よりも、なにか感じるところのある文章というのが好きだ。「今自分の見ているもの、それこそが本質」という考え方に概ね賛同できる私だけれど、その保存方法に関してはあまり手段を持たない。写真はあんまり上手く撮れないし、絵だってきっと3歳児のほうが上手に描ける。まったくもって美的センスみたいなものとはかけ離れている平凡な私の脳みそちゃんなので、できるだけ自分の言葉にして大切に綴じておきたいと思う。
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つけまつげを着けないと外に出られない、人に会えないとすら思っていた時期がありました。自分の顔立ち、とくに目や歯並びが大嫌いだった。肌も白くてつるんとしたものではないので、本当に自信が持てなかった。ちょうど今より10キロくらい太っていたというのも一因かもしれない。
最近では、自分の見た目をまあこんなもんかと受け入れられるようになった。べつに綺麗でも可愛くもないけど、まあそれはそれでいいと思えるので楽だ。お化粧をしていないときの私、お粉とマスカラだけの簡易的な私、それにアイラインとアイシャドウを少しだけ足して眉を整えるいつもの私、さらに大げさにアイラインを引いてラメものっけちゃったりする浮かれた余所行きの私。それがぜんぶ私として大切にできるようになったというのはじつにいいことだと思う。
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先週少しはぬくかったのに、また長い丈のコートが着たくなる温度にぎゃく戻り。きっとこれが終わったらあっという間に夏なのでしょう。あと少しだけ、この冷たいのに甘えてみるのも悪くないかもしれない。
だんだんあったかくなってきたし、夏が待ち遠しい。早く半袖にデニムのショートパンツに大きなサングラスをかけて外を歩きたい。海か川、水のあるところにも行きたい。浴衣も着たい。私にとっては、冬よりも夏のほうが楽しいことがいっぱいある。
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新橋にて変てこなビルを探検。1階から4階までだったかな?ゲーム屋さんとかゲーセンとか古着屋さんっていうと普通だけど、なんていうか、田舎のきったない商店街みたいな退廃的な雰囲気のものばかり。囲碁センターや雀荘もあったりして、こんなド平日の真昼間に背広のおじさんが囲碁や麻雀に勤しんでる姿は少しかわいくも思えた。「お父さん」というかんじがした。秘宝館のような怪しげでいかがわしい雰囲気のフロア、よくわからないマッサージ屋さんが立ち並び、妙な臭いのするフロア、いずれも古い扉にふるーい字体でその名を表している法律事務所や病院。きっとひとりでは来られなかったであろう場所に来られるというのも誰かと一緒に散歩をする醍醐味のひとつだと思った。
そのビルの中に、じつに古臭い佇まいの喫茶店があって、「デートでこういうところに来たいねー。」なんて話しながらガラス張りの店内をのぞいたりしてみた。机と椅子が低いのかな?それともフロア自体が少し低くなっているのかな?いずれにせよそこにいる人たちはみな私たちの目線よりもすこし低いところに座っていて、なんだか小さく見えた。ガラスを隔ててむこう側はライトもくすんだ橙色ががっていて、違う世界のように見えた。
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ところで男の子はどうしてロボットが好きなんだろう。「トランスフォーマー」という映画を、友達がそれこそ画面に釘付けになって見ていたんだけど、私にはさっぱり分からなかった。大きい音のする映画があんまり得意ではないし、それに途中ウトウトしていたから、最後の最後まで何と何が何を懸けて戦っているのかすらわからない。けれど自分が寝ていたのが悪いので、しつこく話の筋を聞くのもいけないと思って友達にも聞けず。何がどうなっているのかよくわからないまま終わってしまった。もったいないことをしたなぁ。
それにしてもむこうの映画に、それもこのテの映画に、とってつけたように入る決めゼリフというか、あのクサイやつはなんなんだろうか。主人公がすごくダサイのに、むこうではこういうダサイ人もこんな台詞を言わされなきゃいけないなんて、大変だなーと思って、それはおもしろかった。
そのあとに観た「コーヒーアンドシガレッツ」は私はきっと好きになれると思った。というのもじつは眠たくて仕方がなかったので途中で観るのをやめてしまったのだけれど、今度おうちでもういちど観たいなーと思ったので忘れないようにここに書いておく。
コーヒーもタバコも苦手だけれど、でも苦手だからこそ少し憧れもあるのかな、なんだか苦手なはずのそれがとっても魅力的に見えた。あとはあれくらいの質量感が私の小さい頭で処理するにはぴったりかなーというのもあって。きっとこの映画には何もしないで一日だらだら過ごしてしまったような夏休みも終わりの日、夕方くらいの時間かなー、そんな感じにぴったりだと思った。あるいは朝ごはんを食べながら流しっぱなしにするとか、そういうのもいいな。
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今週は前半すっかりバタバタしていてお弁当をサボりっぱなしだったので、明日からはきっと再開するのです。
これは、大岡昇平による随分と湿っぽいラブレター。
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銀座で女給(今で言うところのホステス)として一生を過ごした女、葉子。その生い立ちはたしかに不幸ではあるが、物語の設定としては使い古されたようなもの。特別美人でもなければ醜くもない。とびきり賢くもないのにプライドを捨てられるほどバカでもない。そんな葉子の人生を、彼女の上を通り過ぎて行った男たちのエピソードとともに、その最期までを描いた作品。
難しいことはなく、ざっと読める分量なのでさらっと読み終わったけれど・・・うーん・・・。私には葉子というものが全然理解できず、最初から最後までイライラしっぱなしでした。彼女の内面の描写がないのか、それとも本当にそれほど考えていないのか、とにかく考えが足りないというか甘いというか。とにかく葉子は私にはおおよそ理解のできないような行動ばかりをとる。もしも葉子が友達なら「ねえねえ、そんなのちょっと考えれば分かることでしょ?」なんて説教したくなるバカな女なのだ。
しかし、あとがきを読んで私の気持ちはまったく違うものになった。葉子の内面が私に理解のできないような薄っぺらさで描かれていたのは当然のことだったのだ。
葉子のモデルとなったのは坂本睦子という実在の人物。坂口安吾と中原中也が取り合い、小林秀雄に求婚されたという(!)魔性の女なのだ。そして、大岡昇平も彼女と関係を持った男のうちの一人。ところが文壇をかき乱した彼女の魔性、家庭ある身ながら睦子と関係を持った大岡の苦悩、いかにも小説のネタになりそうなこれらは一切登場しない。作品中の語りでは情熱のじの字もないような薄ぼんやりとした表現にとどまるばかり。それもそのはず。大岡から見た睦子、つまり葉子とはまさにこういう女なのだ。
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「いや、どこがいいかって聞かれればぜんぜん!むしろ嫌なところの方がいっぱいあるの!お金はないし、頭もそんなにいい方じゃないのに怠け者だしそのくせプライドばっかり高くてすんごい短気。おまけに見た目だって足は短いし鼻は低いし、眉毛の上のほくろも好きじゃないし。だから自分でもよく分かんないんだけど、とにかくどうようもなく好きなのよねー。ほんと私ってバカよね!」ということなのかなーと思う。好きだからこそ、思慮の足りない葉子に、流されやすい葉子に、誰とでも寝てしまう葉子に、それを知っていても葉子に惹かれる自分に、どうしようもなく苛立つそんな気持ちを綴ったのではないかな。魔性なんて使い古された安い言葉では言い表すことのできない彼女の存在。また自分が彼女に惹きつけられているのはその魔性によってではなく、もっとつまらなくてどうしようもない何かなんだということ。それは、うん、分かるなあ。
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それと、この作品全体に感じられる独特の抑えた筆致についてだけど、こちらもはじめは気持ちが悪かった。だけど、どういう事情であれ一度手を離してしまった人、概念ではなくて生身のその人はもう自分の世界とは切れてしまっているのだから、直接手出し口出しはできないのだ。そんな諦念や後悔の気持ちが筆を抑えたのではないかなーなんて私は感じました。
高校を卒業するくらいまで映画館が怖かった。
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三人兄弟の一番上、2歳から私は「お姉ちゃん」になった。家族で映画を見る時、お母さんの両隣に妹と弟が座る。本当は兄弟で一番気が小さくて怖がりなのに「あんたは一人で大丈夫やろ?お姉ちゃんやもんね!」そう言われると何も言えなくて、3列シートの地元の小さな映画館ではいつも私だけ違う列に座らされていた。
映画館の通路って、すきま風みたいなものなのかな?時々すうっとよく分からない冷たい風が吹く。小さな私には通路はとても大きく感じられて、真っ暗で、それで隣にお母さんがいないのが怖かった。大きな音の出るスピーカーも、予告で時折現れるホラー映画も、怖くて怖くて仕方なくって、いつもぎゅっと目をつぶっていた。
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とっても大好きな女の子と映画を観てきた。あの子が「映画館が苦手だ」なんて言うものだから、小さい頃のことをつい思い出してしまった。
あっという間にすぎた1年でした。
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たぶん今までの人生でいちばん好きな人ができて、震災があって、好きな人とはもう嘘みたいにうまくいかなくなって、それをずるずる引きずったりしたりしなかったりでなんていうのかな、なんかこう、喪中みたいなきもちで年末まで来てしまったというかんじ。本当にほしいものは思ったよりもぜんぜん手にはいらないようです。
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至極個人的なお話だと、自分のリズムをきちんと分かったような感覚がありました。土日を働かないようにシフトを調整して、それで平日学校行って一生懸命バイトして、週末はゆっくり自分の好きなことして過ごすというのは実に性に合っていたように思うので、それは今年もできる限り続けていこうかなって。あとは食べる物とか飲む物とか、これは合ってる、これはダメっていうのがだんだんと定まってきて調子がよろしい。これって簡単なようでけっこうむつかしくて。だからもう、いつでも具合悪いキャラは卒業できる!!かもしれない。
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それからそれから、友達っていうものについて。
正直なところ私は他人に心を開くということがすごく苦手です。あんまり人を信用できないし、どちらかといえば結構人ぎらいです。だから当然、友達が少ない。でも、私の数少ない仲よしのお友達を見回す限り、これでもけっこういい趣味してるって自信あるな。メールは返さないし電話もあんまり出ない、ふらふらと落ち着きのない私に愛想をつかさない彼ら彼女らは偉大だと思います。ほんと。
それでいてみんなとっても面白い。(実はこれがいちばんたいせつね!)これからもずっと仲良くしてほしいと素直に思います。もう少しは可愛げというものを持って、もう少しはマメになる。ように努力します。
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はてさて、2012年の抱負めいたもの(ででん!)「人を妬まないこと」:これは私の座右の銘?ですね。もう死んじゃったうちのおじいちゃんがちっちゃいころから私に言い続けてたありがたいお説教。だから私の人生における注意事項とでも言いましょうか、そういうものなのです。おじいちゃんはいつも「他人を妬むらあてことは、人間がいちばんやったらいかんこと。一番醜いことや。」とそんなことを言っていました。2012年、今年は「就職活動」からは絶対に逃げられないので、自分としっかり向き合うという意味もこめて、あえてこの一言を選ばせてもらいました。
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それにしてもこうやって思い返してみれば結構内容のある1年だったなあ。のうのうと生きててそのまんまになっちゃってて少しもったいない。ことしはちゃんとブログ書こうっと。
念願の、念願の劇団本谷有希子。
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主演、俺の長澤まさみ!!(言うまでもなく足がちょうキレーだった。ぺろぺろ。)そしてだいすきなリリーフランキーとくればいてもたってもいられず、単身のり込んでまいりました。
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いままでの本谷作品とくらべるとかなり分かりやすかったように思う。ああ、こういうひとっているよねーっていう。「人のふり見てわがふり直せ」という言葉がぴったりで、冷や汗かきやすい(あるいはかくべき?)ストーリーでした。
終始振り切れっぱなしで軌道修正なしにどんどん狂い堕ちて疾走するような、われわれはただ口をあけて見つめるしかないような、感情移入すら許さないような、ある意味では清々しいそんな毒ではなく、後味悪くキモチワルイお話。
観てるこっちが「もういいわかったはいはい」ってうんざりしてしまうような鬱陶しさ。しつこいしうるさい。従来が「ドッカーーーーーン」ていう爆発の音だとすれば、今回の作品は「キィィィィィィ」って黒板を爪で引っ掻いたような音。
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あたし自身は、小学校中学校と周りと人間と仲良くできず今もそれほど友達も多くなければ可愛げもなくだいたいひとりで過ごしていることが多い人間なので、群れないというよりは群れることのできない主人公ひろみのアウトロー気取りに辟易しながらも人ごととは思えないような恥ずかしさも感じていた。
あと一歩のところで完全にはぷっつんしきれない彼女の凡庸さと寂しさが痛くて苦しかった。叫べば叫ぶほどみじめでどうしようもなくてどんどん自分で自分の首を絞めているような、そんな絶妙な壊れ方がさすが本谷さん、さすが(俺の)長澤まさみと感じ入ってしまった。
かたやリリーさん演じるオカマ、マキちゃん。リリーさんが女装で出てくるという話を聞いた時に、最近メディアに出ずっぱりのいわゆる「オネェ」のようにおもしろおかしくピエロのようなつくりあげられたキャラのオカマであれば観たくないなぁ。(「オネェ」ブームだなんてオカマを使い捨てにする最近の風潮にはちょっと思うところがあったりする。)なーんて不安に思っていたけど、ぜんぜんオカマを特別扱いしていなかった!!
ゲイも女も男もビアンも、その他無数に存在するセクシュアリティの違いはあれどそれをのぞけばどうってことない普通の人間なのに、なーんか勘違いしちゃってるマキちゃんを叩く叩く叩く。
だけではなくて、はっきりと差別することよりも妙に理解のある風にして見ないふりしているほうがずっと失礼だという事実を、差別する側に突きつける。このあたりは、はじめこの設定を不安に思っていた自分が恥ずかしいくらいだった。
そしてその周りに群がるいろんなひとびと。いろんな思いを抱えながらもひとりでは何もできない人たち。それに対して「死ねェェーーーーーーーーーー!」って絶叫する長澤まさみがすごい気持ちよくて、スカッとしてしまったあたしはやっぱり一匹狼気取りの寂しがり屋なんだろうなあ。みっともなくて恥ずかしい。
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とにかく全体通してそのへんにいそうなやつらのエグさを描いていて、先にも書いたようにあたしは正直いままでの作品のなかで最も後味が悪くてイライラした。その後ごはんが食べられないくらい。笑
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そもそも本谷有希子作品が好きだっていうひとに観てもらいたい。そしてどう感じたのか聞きたいなぁと思った。きっと好き嫌いが分かれるはず。そのうちノベライズされるだろうし、活字ではこのお話がどう料理されているのかってあたりもまた楽しみだったりする。
総じて、とにかく俺のまさみが超絶かわいかった。以上。
クレイジーハニー 脚本:本谷有希子
あたしには「お父さん」がいません。4歳のときに両親が離婚して以来、いちども会ったことがなく現在も生きているのか死んでいるのかすら知らない。どこかで再婚して幸せな家庭を築いているのか、汚いオヤジになっているのか、はげてたりするのか、それもわからない。
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4歳だったあたしにも、それでもそれなりに「お父さん」の記憶はある。
「ビートルズ」「テディベア」「かえる」このみっつはあたしにとって特別な存在だ。お父さんがおうちで毎日のように聴いていたビートルズ、覚えてる限りさいしょでさいごのプレゼントのテディベア、お風呂で教えてもらった指あそびのカエル。子どもの頃テレビで、映画で、ラジオで、流れてくる音楽に「あれ、これ聴いたことある!」とかんじるのはすべてビートルズだった。4歳のころに聴いたから、曲名はもちろんそれがビートルズだったことも覚えていなかったのだけど、「リンゴ」という名前を変なのって笑っていたこと、「イエローサブマリン」がお気に入りだったこと、そんなことをビートルズを聴くうちに急に思いだしたり。
それから今も毎晩テディベアの「ジャック」と一緒に寝ているし、指遊びのかえるだってオス・メスのちがいまでちゃんと覚えてる。ほかにもジュビロ磐田を応援していたこと、野球も毎日欠かさず見ていたこと、田中美佐子が大好きだったこと、なんとだくだけど覚えていたり思い出したりする。たった4年間だって、お父さんはあたしにこんなにも影響を与えている。
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誰かの記憶になるということは幸せなことなのでしょうか。あたしのお父さんはあたしがこうやってたまにはお父さんのことを思い出したり、なつかしいなあって感じることを知ったらどう思うのでしょうか。それからお父さんもあたしのことを覚えてくれているのかな。2010年、去年の11月26日には「そういえば知紗はもうハタチになるのか」「どんな風に成長してるのかな」なんて考えて会いたくなったりしてくれたのかな。
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あたしにとってお父さんがいないということがいいことなのか悪いことなのか分からない。でも、やっぱりなにかが足りない。それがお父さんがいないことと関係しているのかどうかは分からないけれど、みんなが持ってるはずの、そういう装備みたいなものがあたしは何かひとつ足りないなあって感じることがあって。それを思うたびに女でひとつで育ててくれたお母さんに後ろめたいような、申し訳ないような、そんな気持ちになる。だけど足りない。
でも最近は、その「足りない」はもしかしたら(自覚してるか、その大小はさておき)みんな持っていて、「足りない」からわたしたちは誰かと一緒に家庭をつくるのかなーなんて思ったりもする。人間の本能の部分にこういう風に感情的意味づけをするのはナンセンスかもしれないけれど、動物に比べてはるかに分かりやすく多様にいろんな家庭のカタチがあるのはそういう部分に大きな要因があるんじゃないかと考えたりする。むずかしいね。答えのなさそうなことは考えないほうがよいのだろうけど、あたしはこういうことを考えないことがすごく苦手だ。それもむずかしい。
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もうすぐ父の日らしいと聞いて、お父さんのことを考えてみた。
お父さん、元気ですか?あたしは元気です。
恋をした。傍目にも、それから自分でもはっきりそれと分かる恋をした。
「恋愛」というもの、「好き」っていうのが何かなんて考える暇もなく、すごいスピードでごろごろ転がってった。
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あたしの、ほとんどはじめての恋と重ねないではいられない、苦しい苦しいおはなしだった。けっして美化しているわけではなく、ほんとうに、逃げても逃げてもあたしの記憶にしがみついてくるおはなし。
頭が悪くてちっともなんにも分かってなくて、でも明るくて女の子にモテて、人一倍体裁気にして、だけど優しくて素直でかわいくて弱いひと。
なんとなく約束をした遠いところへは連れて行ってくれなかったし、あたしの話だってきっと半分くらい聞いていなかったんだろうし、頑固で文句が多くて、それでいてすごく夢見がちなあたしの性格にだって疲れていたんだと思う。「行かないで」って言えばあたしを放ってはおかないひとに、甘えていた。
はじめから、いつかはだめになるって分かっていたのに答えに目を逸らしつづけていた恋だったので、終わりは思ったより早くそれからあっさりときた。あのひとらしい、なんとなく空気で分からせるずるーいやり方。
あたしのほうは、なんだかすっきりとして、「なーんだ、ひとりだってこうやって元気にやっていけるや」って、恋ってやっぱり意外とたいしたこともないんだなって、あんなに大好きで一緒にいないと気が狂っちゃうほどだったひとのこともなんでもなくなるんだって、安心してた。
あたしは今までなにも持ってなかったから、少しいい夢みたけど、それから醒めただけで最初とおんなじなんにもないところに戻ってきただけだから、なんてことはないフツウだって言い聞かせてなんとか毎日をやり過ごせていた。
なのに、
ジョゼと恒夫があまりにもあたしとあの子のようで、何もかもを一気に思いだして涙が止まらなくて、こんなDVDいちまいにこんなにぐしゃぐしゃにされていることが悔しくてなにがなんだかちょっともうわけがわからなくなるほどで、困った。
画面の中の、ほっぺとおでことくちびるとを、ぜんぶをだいすきって包んでくれるような、お父さんが子どもにするようなキスがすべてを思い出させて吐きそうになった。
なんでこんなもん録ったんだよ!ふざけんな!って怒りたくなるくらい。
+
知っちゃったら戻れないんだよ。なんにも期待しないでぼーっと座り込んでたあのころには。誰かと一緒に1日を過ごすこと。ほんとにお互いがお互いに自分の生活をしていて、でも隣にいるっていうことの安心。当たり前のように手をつないだり、当たり前のように一緒に食事をして、当たり前のように隣でぐっすり寝ることが、その「当たり前」があたしにとってはどれだけ特別で愛おしいものだったか分かってないでしょう?普通のことを普通にして、そしたらあたしが勝手に勘違いして、キモチワルイなこいつって思ったかもしれない。でもあたしはほんとうにその何もかもぜんぶがはじめてだったんだよ。責任とれよあほう。
自分が思っててでも言えなかったなにもかもが順序もなく一気に噴出して困った。
たくさん言葉にしたい思いはあって、でもそれを今言葉にすることは誰かをすごく傷つけるかもしれないし、それ以上にあたし自身も痛いことだけど、でもあとから振り返って懐かしむことは時間が経てばいくらでもできる。そうじゃなくて、いま。思いだして泣きたくなるほどにまだ大好きないま、ちゃんと言葉にして残しておきたいなあって。それはジョゼのせいだ。
+
あたしはでも、自分が思ってるよりきっと強くて、ぜんぜんだいじょうぶだ。きっとずっと先もこんなふうにして思いだして泣いたりすることもあるけれど、でも日常はだいじょうぶ。もうなんともない。
恒夫がジョゼを思いだしてあんな風になるように、あのひともあたしのことを思いだしていきなり泣いたり怒ったりしてほしいなってほんの少しだけ思ったけど、そんなことないのも分かってる。だからへいき。
+
なーんて書いてたら、ほんとにすっきりしてきた。ずっとずっと観たいと思っていて、TSUTAYAで何度も借りたけれど時間がなくてずっと観れないでいたおはなし。それが「ジョゼと虎と魚たち」だったわけだけど、このタイミングで出会えたということが運命・巡り合わせだって心底思える。
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最後に:こんなごくごく私的なことを書くのはよくないのかもしれないけれど、でもまあこんな恥ずかしい女を一瞬でも相手にしてしまったことを恨んでもらうしかないなあ。ごめんね。
ジョゼと虎と魚たち 監督:犬童一心
私は戦争映画が好きです。いや、好きというよりは、半ば義務感のようなものに駆られて見ていると言った方が正しいかもしれないなあ。
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戦争映画を、極度に怖がりな私がそれなりの本数観てきた理由はまたこんどそこだけに的をしぼって書きたいなあと思っているので今回は割愛します。というのもこの映画、もちろん戦争なくしてこの映画を語ることはできないけれど、それ以上にひと組の夫婦のありよう、夫婦あるいは愛情とは一体何なのかというところにフォーカスされているように感じられたから。
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戦地で四肢を失い、「芋虫」のような姿になり果てた夫が自分の元に帰還する。物語はそこからはじまる。
私なら、愛するひとがこんな姿になって戻ってきたらどうするだろうか。想像するだけ無駄かもしれないけれど、必死で考える考える考える。あんな化け物のような姿で帰ってきたら、まずは気持ち悪いと思うだろう。でも自分が怪我をした時のことを思い出す。どんなにえぐくて見ただけでも吐きそうな傷口であったとしても、絶対慣れる。毎日嫌でも手当をしなくてはいけないのだから、見慣れる。人間なんてその程度の雑なもの。あたしなんて、それどころかその傷口を愛おしいとさえ感じてしまうようになったりするんだから、きっとクリアできる。綺麗事ではなくそう思った。
+
ただ、この物語では夫は耳もろくに聞こえなければ話もできない状態で帰ってくる。これは絶対に耐えられない。無理だ。どれだけキモチワルイ外見になろうが、きっと我慢できる。というかそのうち慣れる。だけど、もし愛するひとと気持ちを通わす術がなくなってしまったとしたら。無理だ。100パーセント不可能だ。と、ここまで考えて私にとって「対話」というものがどれほど大切なものであるかということに気がつく。愛するひととはいつでもきちんと話したいし、伝えたいし、分かち合いたいんだなあと。あたしが今何を考えているのか、きちんと分かってほしいんだなあ。ということをなんとなく感じた。私の求める「愛」というものは「対話」と切り離しては考えられないものなのかもしれない。
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私のことはさておき、妻を演じる寺島しのぶ(私が大好きな女優のひとり)は全編にわたって常に孤独だ。もちろん夫を演じる大西信満も素晴らしい演技で魅せてくれているのだけど、これは寺島しのぶのひとり芝居だ。すごい。だけどさびしい。辛い。毎日毎日気持ちの伝わらないお化けのようなものを相手に生きる。こんなに辛いものはないだろう。食い入るように、と言うよりは茫然と画面を見つめていた。最初の衝撃以来、同じことの繰り返しの毎日の中での心の動きを描いているのだが、まったく長いとは感じなかった。
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私は結婚をしたことはもちろん、きちんと腰を据えて誰かとお付き合いをしたこともない。他人と向き合うことから逃げ回って生きてきたような人間だ。でもなんとなく、私にとって人を愛するということがどういうことなのか、そのヒントのヒントのようなものを与えてくれた。そういう意味では私にとって最も影響のあった映像作品のひとつとなるはずだ。
キャタピラー 監督:若松孝二
雨の日、とくに春から夏のお昼までずっと晴れていたのに夕方になって突然ご機嫌ななめになるような日はなんだか心が落ち着かない。
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お昼を食べて、さあ午後も頑張ろう。今日は仕事が終わればあの子とゆっくりお酒を飲みに行くんだーなんてついつい鼻歌まで出てしまいそうな、でも少しだけ眠たいおだやかなお昼に水をさすは雨の匂い。
窓をあけていればすぐに分かる。背中から雨の匂いがする。嫌な予感がするから空の色は見ない。とりあえず仕事をする。でも落ち着かない。なんだかもぞもぞと心臓あたりが動く。すぐにやっぱり我慢ならなくなって後ろを振り返る。
ああ、やっぱり。
お勉強をしていなくて全然できなかったのが分かりきっているテストの答案を恐る恐る答え合わせしたような。
もうこうなっては集中なんてできっこない。
傘を持っていないなあ、今日行くお店ではテラスでビールを飲むつもりだったのに、雨となれば気分もちがう、予約を取り消そうかいやでもそうすれば楽しみにしていたあの子に申し訳がたたない、それより今日はとってもあたたかかったからまるで初夏のような薄水色のシフォンのワンピースで出かけてきてしまったのに雨ではなんだかちぐはぐでしかも少し肌寒いだろうなあ、一度帰って着替える時間はあるかしら、約束の時間を遅らせてもらおうかしら、ああ今すぐにでも家に帰ってしまいたい。そんなことしか考えられない。
+
それにこういう時の匂いというのがどうしてもだめで、なんだか私の方まで大声を出して泣きたくなる。眉がどんどんハの字になって今にも涙がぼろぼろ落ちそうになるのを、歯をぐうっと噛んで我慢する。もう大人なんだから泣いちゃだめだ恥ずかしいしここは会社なんだからと心の中で自分をたしなめるも効果なしで転がり落ちるようにかなしくなってしまう。
なにか昔あったことを思い出すような悲しさ。だけれども何も思い出せずそれでまたもやもやと心が落ち着かない。なにも思いだすことはほんとうはないんじゃないかってやり過ごそうとする、だけどこんな日はあの子の声を聞くまではもうぜんぜんだめ。
いつもはひとりでふらふらしている歩きなれた池袋を、今日はふたりで一緒に歩いた。
女の子にしては少し歩幅の広いふたりで、ざくざく歩いた。
言いたいことをなんでも言える、そういう間柄の子。そういう子とは話すことはもとより、一緒にいることがとても心地よい。
ふたりして「あったかいねえ」「きもちいいねえ」って、たくさん歩いた。途中スターバックスでフラペチーノを買って、クリームをすくいながら。くだらなーいことでからから笑いながら。とにかく歩いた。
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東京に出てきてもう3年目、ハタチになった。高知にいたときは花も空も色が綺麗なのは当たり前で、取り立てて綺麗だなんて思ったことは一度もなかった。それを楽しむだけの余裕がなかったということもあるし、それが決して特別でない日常の風景であったから。
だけど今日、東京らしい霞がかかった群青色の空に薄い桃色の桜の花びらが、もうちょっとくらっとくるほど綺麗に見えてしまった。いつも通っている図書館のそばの小さな公園が、桜の季節はこんなに綺麗だったなんてぜんぜん知らなかった。
+
桜の木の下でつっ立ったまんま、ぼけーっと空とビルと桜とをながめながらじゃくじゃくフラペチーノ飲んで、まあそれだけっちゃあそれだけなんだけど驚くほど気持ちがゆったりとしたあったかいものでいっぱいになった。
+
今まではもっと分かりやすい強い感覚、色も音もかたちもなにもかも強くて激しいものでないとうまくキャッチできなかったというか。例えばお化粧も、ファッションも、なにもかも強くてきつくてはっきりしたものを好んでたの。でもこのごろはもっとふわっとした居心地のよさとか、余計なものがくっついていない、過不足なく自分にぴったり添うメイクやお洋服を選ぶようになった。
季節だって春と秋は正直なんだか中途半端で、おもしろくないなあってずっと思っていた。
春がこんなにきもちよくてあかるくていいにおいのするものだとは。生まれてはじめてそんな風に感じられた。
ましてやきれいな景色をなにするでもなく眺めてこんな豊かな気持ちになれるなんて、あたしにもできるんだなあってびっくりして、すこしは大人になったのかしらん、なんてちょっといい気分になりました。
+
またこんど、もう少し遠くにピクニックに行く約束をして、駅で手を振ってわかれた。
私は乙女である。
そのことは、揺るぎのない事実である。
乙女とは一体なにを指し、私を乙女たらしめるものはなにであろうか。
おと‐め〔をと‐〕【乙女/▽少女】
《「おと」は、動詞「お(復)つ」と同語源で、若々しいの意。本来は「おとこ」に対する語。「乙」は後世の当て字》年の若い女。また、未婚の女性。むすめ。しょうじょ。処女。年の若い女。また、未婚の女性。むすめ。しょうじょ。処女。
うーん。すこしちがう。いや、かなりちがう。わたしにとって、「乙女」とは信仰である。「乙女」いう生き方であり、選択肢である。「年の若い女」である必要もなければ「未婚の女性」である必要もない。もっと言えばセックス依存症の「乙女」だって存在しえる、つまるところ「処女」である必要もない。さらにさらに、「『おとこ』に対する語」でもない。性別なんてとるに足らないくだらない区別だ。
いくつになっても望みさえすれば「乙女」は「乙女」であり続けられる。
乙女に必要なこと、それはなによりも清廉潔白であること。だけれどもここでいう「清廉潔白」というのは決して誰かが勝手に決めた、よく分からないもやもやとしたルールめいたものに対してのそれではない。各々が「乙女」であるということに自信と誇りを持ち、簡単には曲げない崇高な精神のことを言うのです。その拠り所はどのようなものであってもかまわない。「自らを乙女たらしめる規範」が存在していればよいのです。
私の場合、自分を「乙女」だとみとめたのはなにがきっかけだったろうか。私のなかに少女性を植え付けたのはラプンツェル、情熱を吹きこんだのはジョージ朝倉、勇気を与えてくれたのはアンネ・フランク、可憐さを学ばせてくれたのは吉屋信子、美しさを焼きつけてくれたのは澁澤龍彦先生である。でもやはり中原淳一先生このひとこそが私に「乙女」であるという生き方を選ばせた張本人だ。コンプレックスまみれで、人の顔色ばかりをうかがい、暗くていつも無理をしていた猫背の私がだんだんと背筋をのばしてしっかりと息をできるようになったのは彼らをはじめたくさんの文筆家のおかげであった。
子供のころからあまり友達の多い方ではなかった私が、唯一自分を解放できる行為が読書だった。(これは今もそうかもしれない。)本に限っては、おねだりをすることを褒められた。母親に愛してもらいたい一心でとにかくどんどん本を読んだ。小学校のころ、図書室の本はもうほとんど読み切った。ちいさいころから高校にあがるまで通い続けた地域の図書館にも、気がつけば読みたいものがなくなるほど本を読んだ。中学・高校の図書室では、3冊までしか借りてはいけないのに、どうしても我慢できなくて毎回制服のブレザーの下に隠して10冊近くの本をこっそり家に持ち帰っていた。宿題はやらなくても本は読んだ。勉強はまったくしなかったけど、本はとにかく読んだ。大袈裟だと思うかもしれないけれど、当時の私にとっては本を読むことがそのまま生きることのように感じていたのだと思う。救いだった。
そんなわけでちいさいころからすこしずつ蓄えてきた「乙女」がかたちになったのはつい最近のことで、このごろなんとなく明確に自分の中での規範めいたものができてきた。ずうっと憧れてきた「乙女」というものは、私が語るには崇高すぎて、私のような美しくもなければ余裕もなく、処女でもないただの女では到底辿り着けないものだと勝手に思い込んでいた。選ばれた人にしか与えられていない生き方だと思っていた。
けれどもそうではないのだ。「乙女」という生き方は、私が選ぶものなのだ。
今のところはこういう結論に達していて、これが私の思う「乙女」の正体だ。 思い描くその生き方に恥じぬよう、きちんと生きていくことそのものなのだ。どのような境遇の、どのような容姿の、さらに言えばどのような性別を持つひとにも選ぶ権利のある、信仰であり、覚悟のようなものこそが「乙女」なのだ。
おうちに帰ってなにげなくポストを開けると、明らかにDMではない葉書が1枚。
恐る恐る差出人の名前を見ると、台湾から。ああ。
そういえば一週間くらい前に友達から「住所おしえて!台湾から手紙送るから!」っていうメールがきていたんだった。
いつも通り能天気で気の抜けた、でもそれでいて筋の通ったさばけた文章が、よくわからないちいさな絵と一緒に黒のボールペンで葉書半分に書かれていた。
ああほんとにいつも通りだなあって。なんだか分からないけどすごいなつかしいというか・・・そういうやさしい気持ちになる、そんなかんじ。
書いている時の彼女の様子なんかがもう透けて見えるような、ほんとうに彼女らしい葉書。
世界中どこにいたって電波なら一瞬で届いてしまう。しかし手紙ではそうもいかない。現に彼女はわざわざメールで連絡をしてくれて葉書を送ってくれたのだから、届くまでにかなりの時間が経っているわけだ。
だけど彼女は私に葉書を送ってくれた。
あたしはおうちが大好きで、旅行なんてましてや海外なんて、行きたいと思ったことはほとんどないけれど、届いた葉書じっさいにを見て、読んで、彼女が私に葉書を送りたくなった気持ちが、すこしだけど分かったような気がした。
それとなによりも、彼女が旅先で日本を、日本にいる彼女の家族・友人を思い出した時にあたしのことを少しでも思い出してくれたということが嬉しかった。
あたしは誰かの頭の中に、ちゃんと生きてるんだなあって。大袈裟かもしれないけど、そんなような嬉しさがこみ上げてきて恥ずかしながら、部屋へのぼるエレベーターの中で泣いてしまった。あんな奴に泣かされるなんて、くやしい。
こうやって、人間の気持ちをそのままのせて人間の手が運んでくる手紙は、どんなに便利で合理化された世の中になっても、絶対になくならない。それも確信をしました。
ただまあ、その葉書の裏面の謎の壺のような変な写真は正直ちょっと意味がわからなくて、それも相変わらず趣味が悪いなあなんて鼻で笑ってしまった。
満島ひかりの大声が嫌い。ぎやぁぁぁぁぁああぁってかんじの。あの黒板ひっかく音みたいな嫌悪感があって。嫌い。でも、あたしは全然そんな風に大声というか、金切り声を上げて怒ったりしないから、うらやましい。そんだけ自分の感情をあらわにできるのって、さぞかし気持ちいいだろうなあって。人に気持ちを見せないでいることになれると、傷つかないで済むけどあんまり気持ち良くもなれないから。
男とか女とか関係なく、さわって気持ちいいひとと一緒にいたいっていうのは理にかなってるよなあ。その通りだ。なんも難しいことじゃない。けど嫉妬も葛藤もいろいろぜんぶひっくるめて、とりあえず思ったまんまに体を動かしてみるっていうことは簡単なようで難しい。でも見てるとちょーーーかっこいい。気持ちいい。
恋愛とか性について学問として解釈することって個人的にはナンセンスだと思ってたりします。この人は○○だって分類することも難しい。分類されてた方が生きやすかったり、それで楽になる人がいるのも分かるけど。そして矛盾してるけどそういう学問に興味があったりもします。笑
人のことを好きになるのとかぜんぜん理由ないし、それこそぱっと見てなんとなくすごい気になって仕方なくて、こう喉の下のあたりからぐうって熱くなってくるようなかんじがして、体が勝手に反応しちゃうもんだと思うから。そういう風に体が反応しちゃってしかもむこうももし同じように感じてくれていたとしたなら相手が男だろうと女だろうと恋人がいようと結婚していようと、正直どうでもいい。結婚してる人とセックスしてるのと、女とセックスしてるのってどっちが悪い?どっちが気持ち悪い?どっちもだめなこと?それも人によって違うはず。何が正しくて美しくて綺麗で汚くて間違ってておかしいのかなんて自分が決めることであって、周りの人が決めることじゃない。と、少なくとも私は思うのです。
私、この子と付き合ってるんです。ちょー愛し合ってるんです。って人前で言えるのは、正直しびれるくらいかっこよかった。それはもう体から抑えきれなくて出てきたような口ぶりで、伝えるというよりも口から発することに意味があるかんじの言い方。
「あ」からはじまって「る」でおわる、あたしが今いちばんはるちゃんに言ってほしいことば、何かわかる?がいちばん印象に残った台詞。これは間違っても「愛してる」とかいうきっしょい陳腐な言葉じゃないです。悪しからず。
それにしても、好きとか愛してるとかそういう言葉以外にもっともっと愛情とか親しみとか表せる言葉ないのかな?なんとなく、こういうのは胡散臭くて格好悪い気がして使えない。けど思いつかないからしぶしぶ使うこともある。そういう言葉。ただ、うまい言い回しが思いついた時にそれを披露する楽しみはあるなあ。好きとか愛してるとか、それ以上にいっぱいおもってることをうまーく表現できるようなことばを死ぬまで探すことってすんごいステキな気がしてきた。
っていうのもなんとなーく胡散臭いんだよなあ。反省。かっこつけるのって難しい。
カケラ 監督:安藤モモ子
ソーシャルネットワーク、観てきました。
それをきっかけに考えたことを、だああっと殴り書きしておこうと思います。
たくさんのひとがつながるっていう、それ自体に意味があるんだと思っていて。
なんだか私のまわりではインターネットに対して恐怖心や不信感を抱いているひとが多いように感じますが、この気持ち、警戒心こそが良い意味でも悪い意味でもカギを握っているのでは?と思いました。
「ちょっといっぱいつくりすぎたがよ~」って、むかいのおばちゃんがおはぎ持って勝手口からいきなり入ってきたり、夕方「干物ようけもろたき!」って隣のおんちゃんが庭から塀からビニールぶら下げて大声で呼んでくれたり。
朝学校行く時は、そのへんのおばちゃんおんちゃんにも「おはよう」って挨拶しながら行ったし、もちろん帰りも道を通る人たちが「おかえり」って声かけてくれた。
ただし遅い時間に帰ったり、買い食いしたり、そういうのは内緒にしてても絶対近所のひとに見られてて、全部ばれちゃうんだけどね!
商店街のお肉屋さんで母が立ち話をしている途中で、百円玉を飴と間違えて飲み込んじゃった私をみんなが助けてくれた。遊んでるうちにどぶに落ちたうちの妹も、みんなが助けてくれた。
近所のひとはほとんど顔と名前を知っている、田舎の小さな町で暮らしていた私にとっては全部当たり前のこと。
だけどそういう感覚も私が生きてきた、たった20年の間で相当変化した実感があって。うちの隣にはマンションが建って、もうどんなひとが住んでるのか全員は分からない。
むかいのおばちゃんはもう死んじゃったし、隣のおじちゃんは足が悪くて家からほとんど出ない。その介護で一緒に住み始めた息子さん家族は、近所と関わらない。
小さい頃に教わって、当たり前のようにしていた「あいさつ」が、みんながしなくなったおかげでいつの間にか褒められるようなことになっていた。
商店街は区画整理でなくなって、お肉屋さんも八百屋さんもパン屋さんもなくなって、その上に大きな道路ができた。ファミマもスタバもローソンもシネコンも、高知に元々なかったものは入ってきたけど、近所の中華屋さんもモーニングがおいしい喫茶店も、いろんな映画を観に行った小さな映画館もぜんぶなくなった。
そういう風に人と人がつながってるって、うっとうしいしめんどくさいし、息苦しいかもしれない。今の世の中には必要ないってみんなが思ったから薄れていったのかもしれない。だけどみんな、本当は誰かとつながっていたいはず。
たとえばTwitterでおはよう、ただいま、おかえり、おやすみってよく見るけど、そういう気持ちが根底にあるのでは?
だから「つながる」ってこと自体が注目されてるんじゃないかな。
インターネットは危ないだとか、顔が見えないひとがどうのこうのってよく聞くけれど、それは個人の判断力の問題だと基本的には思います。
現実の世界でだって、詐欺や嘘やそういうことをしようとするいやーな人たちは、とうの昔から存在しているわけで。対面のコミュニケーションではないから、その分注意を払わなければいけないことはあれど、自分がしっかりとした判断能力を持っていないと危ないことにはかわりがない。
例えば出会い系サイトだって、男女が勝手に出会ってそれをキッカケに恋愛してなんてそれ自体に問題はないわけで。それを悪用するひとと、その嘘を見抜けないひとがたくさんいるから、事件が頻発して出会い系=危ないというイメージがついてしまう。
それは「出会い系サイト」というツール自体が悪いのではなくて、使うひととその使い方が悪いだけなのに。
始める前から理由をつけて尻ごみするのは簡単だけれど、ぽーんと飛び込んでしまえばなんてことなかったりする。嫌ならやめちゃえばいい。やってみないで嫌な噂だけを聞いて、それをまたばらまくことに果たして意味はあるのかしら。
反対に、自分にとって良いことであってもそれを盲信的に信じてしまうこともとっても危ない。
自分が見て聞いて触って、きちんと自分の感覚で感じて、自分の頭で判断することをしないでいれば、そりゃあ判断能力も鈍ってしまうよね。
インターネットも現実も、そういう部分ではなんら違わない。冒頭で述べた「良い意味でも悪い意味でも」というのはこういうこと。
少なくとも私は怖がりだし臆病だし泣き虫だけど、そのせいで目の前にごろごろ転がってる「たのしいこと」をみすみす逃したくない。多少痛い目みても、なにもしないよりははるかにマシだと思っています。もちろん、悪い頭をフル回転させて必死に考えて動いて判断した上で。
Facebookが日本で流行るか否かを議論したり、ああすればいいこうすればいいって話し合うのは私たちのすることじゃない。天才に嫉妬することでも憧れることでもない。
天才じゃない、お勉強のできない、だけど面白いことも楽しいことも大好きな私には何ができるんだろう。そもそも私は何をしたいんだろう。
そういう風に一生懸命頭を働かせるきっかけになる映画でありました。
ソーシャルネットワーク 監督:デヴィット・フィンチャー
雰囲気でものを決める癖がある。
なんとなく、好きな雰囲気・空気というものがあって、そういうあんまり根拠のないことで人や物を信用してしまう。
「運命」という言葉はかなり胡散臭いのだけれど、実は結構信じていたりもする。
どれだけ周りや世間で素晴らしいと持て囃されていても、なんとなく好きになれなかったり信用できないということがよくある。
それは別に私の観察が優れているとか、先見の明があるとか、そういうかっこいいことではなくて。ただ単に「胡散臭さ」にすごく敏感というか。それも私の基準のなかでの「胡散臭さ」だからまあ、あまり信用ならない。
たとえば好きな物書き・作家・文豪もやはり、好みのお顔をしてらっしゃる。その方の作品を読んで、なんとなく好きだなあと思った人は大体見た目も好きだ。そういう方々の作品にはもう、初期から遡って全てを買い占めて私のものにしたいほどの愛着を持つようになる。また逆に、ひとつとても素敵な作品を見つけても、他の作品はいまいちぴんとこないような場合は大抵、後で写真なりを見て、納得する。
歌手や俳優はまだしも、なんと友人に至るまで、別に顔で選んだわけではないのになんとなく好みから大きく外れていない人たちが集まる。それは別に世間で言う「イケメン」とか「カワイイ」とかとは必ずしも一致しているわけでもなく、必ずしもそこから隔たりがあるわけでもなく。
顔というか本当に、その人の持っている雰囲気や温度や匂い。そういうものが、ばちっと合うようなひとはやはりあたしの運命の人だし、一緒にいるうちに合ってくる人もいる。また合わなくても一緒にいたいと思う人や、合わないけれど(合わないこそ、かな?)好きな人もいる。
それから、これは父親のいない家庭で育ったり、男性に対して少しトラウマとなるような経験を子供の頃にしたことがあるせいか、文学や音楽など好みが女性の生み出したものに大きく偏っている。
男性のつくったものでも、好きなものはあるけれど大抵同性愛者だったり中性的な空気をまとっている方である。こういう言い方は好まないけれど、分かりやすいだろうからあえて言うと「男くさい」「男らしい」、そういうものは苦手だ。
こういった好きなものに対しての嗅覚や好奇心や執着はものすごくあるのだけど、興味のないことにはとことん無関心であるために、私はすごく栄養が偏った人間だ。それが悪いことなのかはまた別として。
こういう偏った部分を、大学に入ってからは悪いことのように恥じて、必要以上に自分を責めていたように思うけれど、最近は別にそうは思わなくなってきた。
バランスは自然ととれていくもののように思えるし、そもそも自分自身のバランスの悪さに気を取られているうちに楽しいことを逃してしまうような気がして。
そうやって開き直って少しだけ背筋をのばして元気にしていれば、周りの人たちは案外あたしを受け入れてくれるものだ。たまに伝わらなかったり、うまくいかなくて、苦しい時もあるけれどその時はその時で一生懸命考えれば良いって思えるようになった。決めつけたり、レッテルを貼ったり、食わず嫌いしたりするのはもちろんよくないけれど。
基本的には楽観的で快楽主義者なので、それらしくのほほんとね。私が運命を感じたひとに、私もまた運命を感じてもらえるように。
雰囲気でものを決める癖がある。
なんとなく、好きな雰囲気・空気というものがあって、そういうあんまり根拠のないことで人や物を信用してしまう。
「運命」という言葉はかなり胡散臭いのだけれど、実は結構信じていたりもする。
どれだけ周りや世間で素晴らしいと持て囃されていても、なんとなく好きになれなかったり信用できないということがよくある。
それは別に私の観察が優れているとか、先見の明があるとか、そういうかっこいいことではなくて。ただ単に「胡散臭さ」にすごく敏感というか。それも私の基準のなかでの「胡散臭さ」だからまあ、あまり信用ならない。
たとえば好きな物書き・作家・文豪もやはり、好みのお顔をしてらっしゃる。その方の作品を読んで、なんとなく好きだなあと思った人は大体見た目も好きだ。そういう方々の作品にはもう、初期から遡って全てを買い占めて私のものにしたいほどの愛着を持つようになる。また逆に、ひとつとても素敵な作品を見つけても、他の作品はいまいちぴんとこないような場合は大抵、後で写真なりを見て、納得する。
歌手や俳優はまだしも、なんと友人に至るまで、別に顔で選んだわけではないのになんとなく好みから大きく外れていない人たちが集まる。それは別に世間で言う「イケメン」とか「カワイイ」とかとは必ずしも一致しているわけでもなく、必ずしもそこから隔たりがあるわけでもなく。
顔というか本当に、その人の持っている雰囲気や温度や匂い。そういうものが、ばちっと合うようなひとはやはりあたしの運命の人だし、一緒にいるうちに合ってくる人もいる。また合わなくても一緒にいたいと思う人や、合わないけれど(合わないこそ、かな?)好きな人もいる。
それから、これは父親のいない家庭で育ったり、男性に対して少しトラウマとなるような経験を子供の頃にしたことがあるせいか、文学や音楽など好みが女性の生み出したものに大きく偏っている。
男性のつくったものでも、好きなものはあるけれど大抵同性愛者だったり中性的な空気をまとっている方である。こういう言い方は好まないけれど、分かりやすいだろうからあえて言うと「男くさい」「男らしい」、そういうものは苦手だ。
こういった好きなものに対しての嗅覚や好奇心や執着はものすごくあるのだけど、興味のないことにはとことん無関心であるために、私はすごく栄養が偏った人間だ。それが悪いことなのかはまた別として。
こういう偏った部分を、大学に入ってからは悪いことのように恥じて、必要以上に自分を責めていたように思うけれど、最近は別にそうは思わなくなってきた。
バランスは自然ととれていくもののように思えるし、そもそも自分自身のバランスの悪さに気を取られているうちに楽しいことを逃してしまうような気がして。
そうやって開き直って少しだけ背筋をのばして元気にしていれば、周りの人たちは案外あたしを受け入れてくれるものだ。たまに伝わらなかったり、うまくいかなくて、苦しい時もあるけれどその時はその時で一生懸命考えれば良いって思えるようになった。決めつけたり、レッテルを貼ったり、食わず嫌いしたりするのはもちろんよくないけれど。
基本的には楽観的で快楽主義者なので、それらしくのほほんとね。私が運命を感じたひとに、私もまた運命を感じてもらえるように。