ambiguitas

Posts

神田うの「あら、可愛いネコちゃんね…」


1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/04/08(金) 17:46:48.63 ID:ZcBT+Q+L0

憲一「(うの…私なのよ…お願い…気付いて…!)」

  • 76 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/12/06(火) 01: 02:42.16 ID:CTH//T A0
  • A:煙草吸ってもよろしいですか?
  • B:どうぞ。ところで一日に何本くらいお吸いに?
  • A:ふた箱くらいですね。
  • B:喫煙年数はどれくらいですか?
  • A:30年くらいですね。
  • B:なるほど。あそこにベンツが停まってますね。
  • A:停まってますね。
  • B:もしあなたが煙草を吸わなければ、
  • C:ちくわ大明神
  • B:あれくらい買えたんですよ。
  • A:あれは私のベンツですけど。
  • B:誰だ今の

Audio

Posts

もし子供が「なんで勉強しなきゃいけないの?」と尋ねてきたら私はこう教えてあげたいです。「勉強すれば、勉強していない人達よりもずっと面白いことが出来るし、楽しい人達と知り合う事が出来るからだよ」と。

neopozi < l9g < source

────────────────────────────────────

反駁:子供にとっては,この解答も「将来,良い会社に入って,たくさん稼ぐため」という解答も同じなのではないか.というのは,この類の問は,好奇心から発せられた純粋な疑問ではなく.なぜ今現在,自分がこんなにつまらない勉強をしなければならないのかという反語的な不満の訴えだと考えられるからである.子供の問は苦痛の訴えなのである.このような問にたいして「将来良いことがあるから」というタイプの解答は無意味である.なぜなら,将来的に良いからという理由を理解できたとしても,現在の苦痛は解消されないからである.

では,どのような解答を与えれば,このような問を発した子供の苦痛を解消できるのか.残念ではあるけれども,私は,そのような解答は無いと思う.結局のところ,毎日学校に行かねばならないという現実から逃れられない子供の苦痛を,一言二言で解消できる訳がないのである.それならば,どうすれば良いのかというと,結局のところ,子供が勉強をすきになるように勉強を教えてやるというほかないのだと思う.そして,そのような教育に取って重要なのは,なによりも勉強を教える人自身が,教える学問を楽しみ,またその楽しさを伝える努力を怠らないようにするという事しかないのだろうと思う.

子供の真意を無視した無責任で独りよがりな解答を述べて悦に入る大人の間で,このクオートがリブログされてるのかと思うと吐き気がする.

究極の構造について(ディラック『量子力学』とその註)

物質の究極の構造を論じようとすれば古典的な考えから離れる必要のあることは,実験で確かめられた事実からだけではなく,一般の哲学的な根拠からもわかる.物質の構造を古典理論で説明しようとすれば,物質は多くの小さな構成部分からできていると考え,これらの構成部分の現わす性質についてある法則を仮定しておき,それから物質全体として従う法則を導き出してゆくということになろう.しかしこれでは説明が完結したことにはならない.なぜならその構成部分の構造と安定性の問題に触れていないからである.この問題に立ち入ろうとすれば,その構成部分は,その現わす性質が説明できるように,いずれもそれ自身またもっと小さい部分からできていると仮定することが必要になる.明らかにこういう手続きには限りがなくて,このような論法では決して物質の究極の構造に達することはできない.大きいとか小さいとかが単に相対的な概念にとどまる限りは,大きいものを小さいもので説明してもむだである.従って大きさに絶対的な意味を与えるように古典的な考えを改めることが必要である.(※訳者註)

話がここまで来ると,科学は観測できるものだけを問題としていること,またわれわれがあるものを観測するにはそれを何か外からの影響と互に作用させるほかなないということを思いおこす必要がどうしてもある.観測の行為というものは必ずそれに伴って観測されるものをある程度かき乱す.あるものを観測するとき,観測に伴って,それがかき乱されるのを無視してよいときには,そのものは大きいと定義し,また無視できないときにはそれは小さいと定義してよかろう.この定義は大きい小さいという普通の意味とよく合っている.

通常は,注意深く観測すれば観測でかき乱される程度はいくらでも小さくできると仮定されている.その場合には大きい小さいの概念は全く相対的なもので,われわれの観測の仕方の穏やかさとその目的物とに関係してきまる.物質の究極の構造の理論にはどうしても大きさに絶対的な意味を与えることが必要であるが,それには次のように仮定しなければならない.われわれの観測能力の細かさには限りがあり,それに伴ってかき乱される程度の小ささにも限りがある.この限界はものの本性に根ざすものであって,観測する人の方で技術を改良したり熟練を積んだりしても,決してその限界を超えることはできない.もしいま観測されているものがこの避け難い限界の程度にかき乱されることを無視してよいような場合には,そのものは絶対的な意味で大きいものであり,われわれはそのものには古典力学を適用することができる.他方その限界の程度にかき乱されることが無視できないならば,それは絶対的な意味で小さいものであり,これを取扱うには新しい理論を必要とする.

上に述べた議論から当然の結果として,われわれは因果律の考えを改めなければならないことになる.因果律があてはまるのはかき乱されることのない体系だけである.小さな体系であると,それを観測すればどうしても著しくかき乱されてしまうために,観測の結果の間に因果的な結びつきを見つけることは全く期待できない.新しい理論でも,かき乱されない体系に対しては因果律が適用されると仮定する.そしてかき乱されない体系を書き表すためにたてられる方程式は,ある時刻での条件と後のある時刻での条件との因果的な結びつきを表わす微分方程式となる.これらの方程式は古典力学の方程式と密接に対応しているけれども,観測の結果とは直接には結びつかなくなる.観測結果の計算には避けられない不定さがあり,そして理論のなし得ることは,一般には,われわれが観測をするときにある特定の結果が得られることの確率を計算することだけである.

────────────────────────────────────

訳者註:このあたりの議論は物理学者の一致した見解とは言えない.原著者はここで物質の ”究極の構造” という問題を “一般の哲学的な根拠” から考えようとし,物質の性質を構成部分の運動法則から説明するやり方は,どうしても限りのない循環におちいるほかはないから不満足であるというように言っている.しかしながら単に究極の構造という言葉のみをみて “一般の哲学的根拠” から考えただけでは実のある結論が出てくるはずはない.原子を原子核と電子とが集まった体系と考えるとき,それがすでに “究極の構造” なのであるか,或いはさらにそれらの構成部分についても構造を考えねばならぬものなのか,その決定は経験が教えるところにまたねばならない.実際,今日の物理学によれば,原子核はさらに構造をもったものとされているから,原著者の議論はその点でおかしくなっている.

また哲学上の議論としても,構成部分を考え,必要がおきればさらにそれの構造を考えるというやり方は,科学を推進する大切なやり方の一つであって,そのやり方自身に対して限りがない循環におちいるという非難をむけることはあたらない.実際の事態をよくみると,ひとくちに構造とは言っても,たとえば分子の構造と原子の構造とでは意味が違うのであって,決して単なる機械的な繰り返しではない.従って限りのない循環におちいるかのように思うのは,むしろ機械論的な思いすごしというべきである.もちろん,原子の構造というばあいに,それより大きなものの構造とどの点で意味が違うかを明らかにすることが必要である.そして原著者がここで述べている “観測によってかき乱されること” も,一つの重要な因子である.しかしながら,いわゆる “究極の構造” の問題は,今日の物理学では “素粒子性” の問題へと発展しているので,原著者の議論のようにこれを “観測” の問題と直接に結びつけるのは妥当でなかろう.(玉木:”要素性について”,基礎科学(弘文堂)第2巻第4号参照)

以上,ディラック『量子力学』朝永振一郎・玉木英彦ら訳

────────────────────────────────────

────────────────────────────────────

反駁:ディラックは「物質は多くの小さな構成部分からできていると考え,これらの構成部分の現わす性質についてある法則を仮定して」行う議論については,これは際限なく循環することになると言っている.ディラックは,ここで考察の対象とする議論を「物質は多くの小さな構成部分からできていると考え,これらの構成部分の現わす性質についてある法則を仮定して」行う議論であると明確に述べているのであるから,玉木がディラックのここでの考察について「単に究極の構造という言葉のみをみて」というのは不当であるように思う.玉木は「ひとくちに構造とは言っても,たとえば分子の構造と原子の構造とでは意味が違う」と言う.それはある意味では正しいがある意味では間違っている.なぜなら,同じであるとか,違うであるとか言うためには,それらを区別する基準が与えられていなくてはならないからである.ディラックはここでは「物質は多くの小さな構成部分からできていると考え,これらの構成部分の現わす性質についてある法則を仮定して」行う議論を皆同一であると看做しており,その上で,同一な議論が幾度も現れる様を「循環する」と言っているのである.このような同一視の基準に則れば,分子の構造に関する議論にしても原子の構造に関する議論にしても,たしかに同じであると言える.玉木の「ひとくちに構造とは言っても,たとえば分子の構造と原子の構造とでは意味が違う」と言う指摘は,ディラックの同一視の基準を無視しているのであって,その点で無意味である.

また玉木は,さもディラックが構成部分を考え,必要がおきればさらにそれの構造を考えるというやり方は循環におちいるとして非難しているかのようなことを言っているが,ディラックは今述べた同一視の基準に則って議論が循環すると行っているに過ぎず,より細かな同一視の基準(たとえば,分子の構造に関する議論と原子の構造に関する議論を峻別するような同一視の基準)については一切言及していないのだから,そのような細かな同一視の基準によって峻別されるような個々の議論を非難していないことは明らかである.

玉木の議論において,本質的な指摘は「いわゆる “究極の構造” の問題は,今日の物理学では “素粒子性” の問題へと発展しているので,原著者の議論のようにこれを “観測” の問題と直接に結びつけるのは妥当でなかろう」というところであるように思われる.しかしながら,それは玉木が言うように,ディラックがこの考察で同一であると見做すような議論が,より細かく見た場合には “観測によってかき乱されること” という因子によってそれらを区別できるか否かという意味においてではない.それはただ単に,ディラックが無条件に究極の小ささと観測性を結びつけたことを浮き彫りにするという意味においてである.

河野太郎 議員

なぜかこの選挙中、メールで、候補者に×をつける投票も認めようとか、入れる人がいないから白票を入れるので白票の数も数えて云々という意見が多く寄せられた。

民主主義はそんなに甘いものではない。立候補している候補者はろくでもない、気に入らない、だから×、あるいは白票を入れよう、自分は安全なところで何もしない。そんな都合のいいことが通るわけはない。

民主主義には権利と義務がつきまとう。権利は選挙権であり、被選挙権だ。そして、義務も全く同様に選挙権であり、被選挙権だ。

手を挙げようとしている人間がろくでもないというならば、彼らに×をつけて非難するのではなく、自分が手を挙げる。それが民主主義だ。自分が手を挙げる覚悟も勇気もなくて、手を挙げた人間の悪口を言って事が済むほど世の中は甘くない。

手を挙げた人間がろくでもないならば、自分が手を挙げる。自分が手を挙げる覚悟と勇気がないならば、それを持って手を挙げた人間の中からベストを選ぶ。それが民主主義だ。

選挙権を持った国民、被選挙権を持った国民それぞれがフィールドに立っているプレイヤーだ。自分はPKを蹴らないけれど、外した奴の批判はする、では通らない。あいつはPK外しそうだというならば、自分が蹴ろうとするべきだ。

河野太郎公式サイト | 民主主義の権利と義務 (via katoyuu)




反論:上の河野議員の返答は不適切かつ不誠実である.

返答は不適切だと言ったのは,メールを送りつけた人達の本意が「候補者に不満があるので,×を付けさせろ」という額面通りの具体的な選挙制度の改革要請にあるのではなく,現今の選挙制度に対する懸念の表明にあるのだとだと思われるからである.その懸念とは,有能な人が手を挙げ,選挙活動をしたとしても,知名度のある無能な候補者に勝てないような選挙になってしまっているのではないかということである.(有能・無能が先見的に分かっているということを言いたいのではない.それは,必要なら熱意の有無だとか適当なパラメーターで置き換えてもらっても構わない.問題は,知名度というパラメーターが結果に及ぼす影響が大きすぎるという点である)もしそうだとすれば,不満があるなら手を挙げろという返答が不適当であるのは明瞭である.なぜなら,手を挙げた先の懸念をしている人に対して,手を挙げるか挙げないかを説いているのだから.

また,不誠実だと言ったのは.河野議員に,有権者の声を真摯に聞こうという姿勢が見られないからである.有権者は,なんであれ,選挙制度に不満を持っているのであって,それに対して「制度だから」と返すのはあまりに不誠実である.それは,意見を聞く態度ではない,メールを送りつけた有権者は社会科の教師に質問しているではない.制度を変えられる代議士に意見を寄せているのである.制度を変えられる立場にいる代議士が「制度だから」と言っていては何も始まらない.

メールを寄せた人達の意見を推察すれば次のようなものになるだろう.「今回は有名人候補がひどすぎる.人気がある人なら誰でも通るというのはおかしい.このような選挙をどうにかしてくれ.たとえば,×をつけられるようにするとか」こういった文脈で「×つけ」が出てきたのだと考えられる.確かに「×つけ」が例として馬鹿げているのは分かる.だからといって,そこばかりに返答するのはもっと馬鹿げている.

Audio

Recent tracks

Top tracks

abcdefghijklmnopqrstuvwxyz abcdefghijklmnopqrstuvwxyz